英雄色を好むといわれ
毛沢東やサルトルについてあれこれいわれている
色を好んだから英雄になったのではなく
英雄になったから現実に色を好む条件が与えられたわけだ
それにしてもやはり英雄というものは現実を生きるものだと思う
色好みの性向というものは誰にも内在するものであるが
現実の行いや交渉の中ではうんざりさせられることの方が多く
かなり多大に夢の成分を付着させているか
この現実をあくまで生きるのだという精力性か
そのあたりがないと続かない
夢の成分を付着させる場合にはパートナーの側が
ばかばかしくってやってられない
となるわけだけれど
それでも生活もあるし
英雄に付き添っていればいいことも多少はあるので
ボーボワールとか江青女子の様な立場になる
やはりなんといっても
この現実受け入れるようにできているのが英雄というものなのかもしれない
普通の人ならうんざりするような現実の繰り返しをものともせずにむしろ快楽と思う精神
一種の鈍感さであるが
そんなものが充満しているような気がする
だからそれは極彩色の恋物語ではないのだ
食事にたとえるといいものを少しだけ
必要充分に食べるという方式ではない
片っ端からゲテモノ食いをする
単にそれを英雄色を好むと言っているだけなのだろうと思う
実際、この世の中にたいした色などありはしないのだ
出来損ないでもとにかく対象にする、その鈍感さがあるということだろう
その部分がその人がこの世界で英雄になる条件の一部かもしれない