解放の神学は
宗教としてのキリスト教と
イデオロギーとしての社会主義および共産主義が
結合した宗教実践運動である。
南米における貧困、社会正義の欠如、人権の蹂躙などをの現実に対して、
キリスト者は何をなすべきかという、現実的問題から出発している。
社会的抑圧や経済的貧困の前にこそイエスは現れる。
貧困は神の恵みへの特権的な通路である。
構造的貧苦と戦う者がキリスト者と連帯することは自然で必然である。
イエスキリストは正義の欠乏から解放し、貧困から解放する。
イエスに従い、聖書に従うならば、
現代の資本主義社会の矛盾に立ち向かうために、必然的に、
社会主義的または共産主義的実践が必要になる。
キリスト教的解放とマルク的階級闘争は一致する。
時代の中で虐げられたものに寄り添うとき、
キリスト者とマルクス主義者とは、一致する。
ディートリッヒ・ボンヘッファー Dietrich Bonhoeffer
は解放の神学の始まりに位置するとされることもある。
父は精神医学者カール・ボンヘッファー。
アメリカでラインホルド・ニーバーの元で学び、
マハトマ・ガンディーの思想・非暴力の抵抗に近づき、カール・バルトと親交を結ぶ。
エキュメニズム (Ecumenism) と表現されることもあり、これはキリスト教の超教派による結束を目指す主義、キリスト教の教会一致促進運動のことである。世界教会主義(せかいきょうかいしゅぎ)ともいう。転じて、キリスト教相互のみならず、より幅広くキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のことをさす場合もある。
「無宗教的キリスト教」という印象的な言葉はボンヘッファーの立場を印象的に伝えるものである。
諸キリスト教は一致して、何をなすべきか。それは世界の貧困に反対し、改善すること。人権を回復し、正義と希望を回復することである。
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こう書いてきて、神は今まさに、こちらを向いていると実感できる。何という充実だろう。
一方、グノーシスの文献に接していると、神は無関心で、あちらを向いていると考えざるを得ない。
比較してみて、解放の神学に宿る熱い実践の情熱、またはその幻想が、私を駆り立てる。
わたしの枯れた学問に日光と水を浴びせるものといえば、
これなのではないかと熱い思いにかられる。
彼らは貧困と人権抑圧からの解放を待っている。
わたしたちには貧困と人権抑圧からの解放の方法がある。
あとは、「わたしがやるかやらないか」だけであり、
それは聖書が何度もわたしに問いかけていることだ。
主よ、
貧困に苦しむ人がいて、
わたしは貧困からの脱却の方法を知っている。
そのとき何もしないのは罪です。
イエス・キリストと聖書がはっきりと示す唯一の道をわたしは歩き始めるでしょう。
そのようにしてしか私の人生は成り立ち得ないことを知ったのです。
貧しい彼らには理解されず、
富裕な支配層からは排除されるかもしれない。
しかし私は思う、同じようにしてイエス・キリストは生きて死んだ。
ただそれにならうのがいい。
ただ最も貧しい人の、最も幸せな未来を願い、生き、信じ、死ぬ。
解放の神学の実践はこれだけだ。