充実した展示。今日が初日だった。
デパートはかなり賑わっていた。
初売りで、福袋型のセット販売をどの店も試みていて、
高額でも売れている様子だった。
こんなものを買うのは多分あぶく銭だろうと思いつつ、
手に取ってみると、やはりなかなか楽しそうな福袋である。
わたしはカーテン屋さんフィスバの福袋を見て、いろいろ詰まっているし、
無駄にしないですみそうで、軽く欲望を覚えた。
ミュッシャ展はいかにも日本人受けするだろうというミュッシャを
思想性のない、浮世絵風の、あるいは淋派にも通じる感覚を、
展示している。
ビデオを流していて、人生の前半はバリでのコマーシャル画家としての成功、
後半を「自分の仕事に疑問を感じ、一時アメリカで暮らし、数年後50歳で故郷に帰り、民族の魂を描く」などと紹介していた。
ミュッシャの傑作は数点で、しかも、バリでの商業絵画のみである。
それ以上の発展はない。他の描き方は成功しなかった。
いかにも限界である。しかし、それでも、充分に心地よい。
色づかいが陶器に描く絵のような、やわらかい色であり、
これは必然的に日本人に好まれるだろうし、
わたしは大好きだ。リヤドロみたいだ。
気持ちがいい。
「オヤジが好きそうな絵」の一種という感じもするが、女性としても、美しいと感じるだろう。
夢見る瞳。体の線が生み出す輝かしい効果。必然的にそのようにからみつかざるを得ない、豊かな頭髪。
過剰な装飾は「親切なクムジャさん」を思い出させる。
描いているうちになぜ描いていたのかを忘れても、
なおもただ描くために描く、そんな情熱。
クムジャさんはもう途中からは自分の怨みの感情などを忘れて、
自分の決めた予定に固執しているように思える。
ミュッシャの線もそのような過剰を描ききっている。
それでいいのだ。
考えたところでたいした結果も出ない。それよりは過剰な線を描き続ける。
「ただきれいなだけ」を追求して、ここまで達成した。
淋派であり、日本の着物の模様である。
後年のミュッシャが民族とか何とか言い出したのは、
美のみに関わっていても同じものしか描けないと観念したからだろう。