朝日新聞で保守とは何かの記事で、
英国人スチュアート・ボール氏にインタビュー。
その中での言葉。
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保守主義にはキリスト教が説く「原罪」の考え方が深く関わっている。
人は善をなすよりも、はるかに悪に染まりやすい。
人間という存在のもろさ、甘い誘惑への弱さに対する冷徹な観察が、保守の根底にある。
理想主義的な改革者や左翼急進派の人たちは、人が善意に満ち、だれもが進歩できると考える。
保守主義者たちは、なるほどそれは素晴らしい考えだが、簡単に実現できないナイーブな夢想だと考える。現実世界に対する悲観的で懐疑的な見方だ。
人間の本性がすぐには変わらないのと同様、社会も緩やかにしか変化しないし、現在の秩序には合理性があるという考えが基本に置かれるようになる。
英国と異なり、米国の保守主義の根底には清教徒や原理主義的プロテスタントの、より厳格な伝統が横たわっている。
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なるほど。
人間は愚かで卑屈で信用できない。こういった否定的な感覚から出発すれば、保守的な考え方になるらしい。
わたしはこれに賛成。
そして、一見したところ、いかに矛盾に満ちていると見えようとも、「現在の秩序には合理性がある」はずだ、長い間の妥協の結果なのだと考えることができるはずだ、ということらしい。
わたしはこれにも賛成。
腐敗した世の中だと新聞は報道するが、それしか社会のありようはないのだと納得している。
腐る必要があって腐っているのだ。
無論、浄化の努力は必要である。しかし偶然腐っているのではないのだ。
そのような諦めにも似た達観が必要ではないか。
多分、いじればいじるほど、もっと悪くなる。
たとえば、ある制度や法律に関しても、制定の趣旨があり、制定までの経過があり、さらに運用の歴史があり、さまざまな注釈があり、そのようにして、一見したところ素人には分からないものになっており、それが素人には不合理で妥協的な産物に見え、ときには担当者の怠惰と映るらしい。
しかしそうではない。それは現実の知恵の積み重ねである。
理想的な人間にふさわしい理想的な制度を考えることはできるが、人間をどこまで信じたらいいものか、はかりかねるのだ。
まず暫定的にスタートしてみて、徐々に実績が積み重なり、理想と現実の妥協点はどこにあるかが了解されるようになる。
たとえば、コンピューターのソフトでさえ、そうだ。歴史を帯びてくれば、潜在的なバグは想定すべきであり、拡張した時に、そのバグが障害になることもあり、従って、他の経路を探さざるを得ないこともあり、そのような一時しのぎが、次の障害になる。根本的に新しい設計で挑むならいいのだけれど、なかなかそうはできない。やっとの事でつぎはぎして間に合わせている。間に合えばまだいい方で、冷や冷やである。
長い年月を生きて、人間同士のどうしようもないせめぎ合いに曝されれば、
理想主義は鈍らざるを得ない。
理想は、理念の中にしかなく、
現実は、妥協の産物である。
立派な人も中にはいる、という程度である。
というわけで、わたしはシニカルな保守主義者に分類されるだろう。
昔は確かに理想的進歩主義的人間であった。
共同体のために、人間の未来のために、汗することを厭わない人間だった。
しかし報われないままに時間は過ぎて、
人間の嫉妬や悪意に曝されて、
結果として挫けた。
そんな現状を「保守主義者」についての解説はよく説明してくれている。
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人間は信用するに値しない。信用するに値しない存在になってしまったことについても理由がある。
現実の矛盾にも腐敗にも理由がある。
この二点から出発するしかない。