恩田木工「日暮硯」

恩田木工(おんだもく)
「日暮硯(ひぐらしすずり)」
当時16歳の若い藩主(真田幸豊)が、これまた若い末席家老であった39歳の恩田木工の人物を見抜き、全幅の信頼を寄せ、藩の財政再建についての全権を委任。
恩田木工は、一汁一飯、木綿着用で率先垂範
“右の役(勘略奉行のことです)相勤め候には、もし拙者申す儀を、『左様はならぬ』と申す者御座候ては相勤まり申さず候間、老分の方を始め諸役人中拙者申す儀を何事に依らず相背くまじくと申す書付相渡され候様に仕(つかまつ)りたく願奉り候。”
(右の役目を勤め上げますためには、もし私が提案いたしますことについて、『そんなことはまかりならぬ』と言われることがありましたなら、勤めを全うすることができませんので、老中の方々をはじめお役人の方々は私が提案することについて、どのようなことでも決して反対しないという念書をいただきたいと存じます。)
 と、訴訟(そしょう。つつしんで申し上げること。嘆願)しています。
 藩の重役の中でも一番若い末席家老の身としては、たとえ主君の命令で改革を実行しようとしても、家臣に抵抗されると改革が空回りし、絵に描いたモチになることをおそれたのでしょう。
 それにしても封建時代の君主の命令に対して、全権委任を明確にするという条件を提示した上で引き受けたのですからたいしたものです。
親類を残らず集め、“向後(きょうご)義絶なされ下さるべく候。”(今後、親族の関係をお絶ち下さい)と申し入れ、妻子、家来共残らず召し呼び、
“此度の役儀につき、女房には暇(いとま)を遣(つかわ)し候間、親元へ立戻るべく候。子供は勘当(かんどう)致し候間、いず方へなりとも立退き申すべく候。家来共、残らず暇くれ候間、いづ方へなりとも奉公相極(きわ)むべく候。”
(このたびの役目を仰せつかったために、妻は離縁するので親もとへ帰ること。子供達は勘当するのでどこへなりとも行くこと。家来共は解雇するので新たな奉公先を決めること。)
 と申し渡します。
 一方的に申し渡された人達にとっては、青天の霹靂(へきれき)、何のことか分からずパニックに陥ってしまいます。当然のことでしょうね。
 ここから先は、まるでドラマのような展開がなされていきます。恩田木工が巧みに一族身内をまとめあげていく力量は並のものではありません。
財政改革といえば、必ずや利害得失が激しくぶつかり、家臣の間で争いが起ったり、百姓一揆を惹き起こすのが普通でした。実際に、この松代藩においても、何回か財政改革に手を着けているのですが、足軽のストライキが起ったり、あるいは百姓一揆が発生したりしています。