採録
どの分野も専門の人はすごいものだ
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「私はスミスです」と「私がスミスです」は、どう違うのですか?
いきなりだが、日本語を勉強している外国人にこんな質問をされたとしよう。「は」と「が」の違い。文法の授業で習った気もする。しかし、普段そんなことは意識せずに使っているわけで……はたして、どう答えるのが正しいのだろうか。
日本語の文法に基づけば、「○○は××です」の場合、「○○」部分には話し手と聞き手が了解済みの古い情報が入り、「××」に新しい情報が入る、という説明になる。これは「何」「誰」のような疑問を示す単語を用いて会話文にしてみるとわかりやすい。
Aさん「あの人は誰ですか」
Bさん「(あの人は)スミスさんです」
このとき、「○○」にあたる「あの人」は言わなくても通じている。換言すれば「スミスさん」こそがAさんの聞きたい(Bさんの伝えたい)新情報であるというわけだ。
「○○が××です」という場合はその逆で、「○○」が新情報になる。これも会話にしてみると、
Aさん「誰がスミスさんですか」
Bさん「私がスミスです」
となり、ここでは「スミスさん」なる人物を話題にしていることは双方が了承済みで、Bさんの発信した「私」がAさんにとっての新情報である。
日本語が母語であれば子供でも「が」と「は」を無意識に区別しているが、こうして筋道を立てて考えてみると、我々日本人は何が新情報で何がそうでないかを瞬時に判断し、それを助詞ひとつで表現していることがわかる。
こんなふうに、本書は、外国人が学ぶ「外国語」という視点から日本語を見つめ直し、ネイティブスピーカーではなかなか気づくことのできない日本語の特徴や面白さを改めて認識しようというものだ。
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「山田選手はかなり練習させられていたらしいよ」
日本語は述語(誰か・何かが「どうした・どんなだ」に相当する部分)が最後にくる言語である。そこに使役や受け身など様々な要素が加わると、述語は長く複雑になる。ネイティブスピーカーである我々なら感覚的に理解できるだろうが、外国人にしてみれば、この文章はとてつもなく難解に映るようだ。
上記の例文の述語を文法的に解析すると、「させ」「られ」「てい」「た」「らしい」「よ」の6要素にわけることができる。
まず「させ」だが、これは「する」の使役形であり、ここからは山田選手に働きかける他者(おそらく監督)の存在が見てとれる。続く「られ」は受動態だから、元々山田選手には練習する意志がなかったことがわかる。
「てい」は、ある動作や出来事がどの局面にあるかを表す「アスペクト」という文法形式で、ここでは動作が進行中であることを示しており、次の「た」でそれが過去の出来事であったことを明かしている(つまり過去のある時点において練習を継続して行っていた)。
そして「らしい」で視点が山田選手から話し手に移り、練習の様子が推測や伝聞であることをほのめかし、最後の「よ」では、さらに話の聞き手に対する念押し的なニュアンスまで込められている。
何気なくしゃべっているような言葉にも、これだけの情報がつまっていたとは……と、日本語の豊かさを改めて実感するとともに、「ここまで完璧に把握した上で外国人に教えている日本語教師ってスゴイ!」と、素直に感心してしまった。