知性と共感

知性と共感について考えていると

いろいろな感慨もある
ーー
知性があって共感のないのはアスペルガー症候群と一応呼んでおく
正確ではない
知性がなくて共感があるのを知能発達遅滞と一応呼んでおく
これも正確ではない
知性がなくて共感能力もない場合を何と呼ぶかはっきりしない
知性があって共感がある場合を何と呼ぶのかはっきりしない
多分両方共正常と呼ぶのだろう
いずれも非常に生きにくい
なぜ生きにくいか
知性がなくて共感能力もない場合には生きるのが難しいことは分かるだろう
極端に腕力が強いとか
そのような状況しかない
サッカー場などに多く存在する
知性があって共感能力もある場合には当然良心の呵責が発生するものであって
貧者のためにと活動したりして出世が遅れる
早く出世していれば
相当な世直しもできたのにと惜しまれる
ーー
アスペルガー症候群と知能発達遅滞とは互いに憎みあう
知性がある場合、共感がないのは当然であって、
他人がどれだけ頭が悪いかなど興味があるはずがない
だいたい自分と程度には理解しているだろうと思って生きているのだ
するとそれだけで共感がないと批判される
まあ仕方がない
知性は人間を隔てるバリアーなのだ
人間の共通言語は知性しかないだろう
共通言語を抽出して知性と呼んでいるのだから間違いようがない
その部分が通じないのだから共感は当然欠如している
行っておくが知能の高い同士では当然共感は形成される
だから知能階級が混在しないように社会は分離されている
迷い込んだら辛い思いをするものだ
ーー
知性がなくて共感がある場合
それは脳というcpuの総てを対人関係に向けるので他のことは考えられない
自分はこんなにも他人を気にして生きているのに
アスペルガー症候群の人たちは他人なんか気にしないで生きている
その事自体が気に入らない
知性が届かないのだから共感も届かない
そのことを馬鹿にされたと主観的には感じ
自分は頭が悪いから馬鹿にされたと感じる
(あれ? そのままだな)
ーー
まあ、そんなわけで、知性と共感は両立しがたい
キリスト教の場合には
知性と共感の両立がはっきりと目指されていて
しかしそれは神という装置を通してのみ可能である
神が私を愛するように私は他人を愛するのである
知性の命じる通りに共感するのではない
神と私は共感しているが他人は不可知の項目
しかし神の摂理によりすべての人は理解し合い共感しあう
神が介在項目となるのである
キリストとは仲介者の意味である
mecian ,mediator である