ただ、何かを選ぶ、とか実行するということは、同時に何かを捨てる
ということを意味しますので、ある意味仕方ないことなんですよね
きっと。
それを犠牲という言葉にしてしまうと、ちょっと負の側面が
強く出過ぎてしまうけれど、きっと、それを払ってでも
得たいものがあってからこそ払った犠牲であって、本来ならば、
その得たかったものの方にフォーカスすべきなのかもしれません、
ということを意味しますので、ある意味仕方ないことなんですよね
きっと。
それを犠牲という言葉にしてしまうと、ちょっと負の側面が
強く出過ぎてしまうけれど、きっと、それを払ってでも
得たいものがあってからこそ払った犠牲であって、本来ならば、
その得たかったものの方にフォーカスすべきなのかもしれません、
そうであったかもしれない自分、
そうであり得た自分があるわけですよね
あの時あれがなかったならばとか
あの時こうしていればとか
どうして今はそうじゃないのかとか
で、量子力学では未来を確率として表現する
生きてしまった人間にとっては過去は一つしかないけれど
これから生きる人間には未来はいくつも可能性の雲として浮かんでいるようで
この時間軸の非対称性はとっても問題で
非対称なはずはないと考える人達がいて
それをどう解決するかというと
未来は量子力学の方程式が示すとおりの確率で実際に存在するんだと考えるわけです
無限に枝分かれしていて
その無限の世界があるわけです
で、その一つ一つの世界に可能性としての自分が存在している
だからまあ、私という人は一週間後に大体大きな可能性としては
相変わらず仕事をしているわけですが
小さな可能性としてはインドに行って修行していたり
バリ島で案内をしていたりもある
だって可能性として計算できるのだから小さい可能性としては可能なんです
すると現在のこの時間に別の時間軸では別の私が生きている
今現在の私がこのように存在しているのはこの時間軸だから当然なんです
他の時間軸にいる私はその時間軸で同じように「ああこの自分か」とつぶやいている
だから現在は当然なんです
エヴェレットの多世界解釈というものなんですが
現在は否定されている感じ
でも私にはそうとしか思えないです
その時にどけだけ意志が働いているのか
が問題になります
だつて他の時間軸でいろいろな可能性があるなら
意志の働きとはなんなのか
また祈りとは何なのか
ーー
ここからはSF的なんですが
意志の働きや祈りは確率分布を少しだけ変化させるんです
これはやや合理的でしょう?
いや、もうとっくに否定されたか考えなんですが
たとえばカトリックの人はずっとカトリック的なものから抜けられないし
そんな感じで
アマチュア的な量子力学の感覚から抜けられないんです