#1
臨床家にとって最大の教科書は、まさに私たちの目の前のクライエントである
#2
問題を抱えた子らは、家庭や社会の、つきつめていえば、ひとつの時代の「鏡」であるといえる。いわば、彼らは「時代を映す少年たち」なのだ。
#3
神経症児たちの示す症状や行為は、成人の場合と違って、本人よりもむしろ周囲の者を戸惑わせたり困らせたりすることが多い。そのため、家庭や学校などの小社会の「秩序」を揺るがしたり、一見安定していた「日常性」を大きく動揺させたりする。個人より小社会の方が強力なことが多く、個人の方が、結局「逸脱」した、「異常」なものとして異物扱いされ、排除される。そういう少年たちをわれわれが上手く受けとめることに成功すれば、彼らは再びその小社会に戻っていく。小社会に戻すこと、すなわち端に「適応」させるために「なおす」というのは誤りではないか、という意見がある。現代は、個人の弱点(遺伝とか性格)だけに原因があるという一面的な考えが反省され、その個人が所属する「場」のもつ病理のしわよせの結果、神経症や精神疾患が生じると考える傾向にある。この考え方は支持できる。精神療法を通して子どもたちと関わってきた私には、社会がいつも普遍的正当性を持っているとは考えにくいのだ。むしろ、ある意味では「犠牲の山羊」として生贄に供されたこれらの少年たちこそ、次の時代を考えていく大きな指針を与えてくれる貴重な「生きた証人」である。
#4
神経症児たちなどじぶんたちは自分の子どもたちとは何の関わりもない、と考える方がいるかもしれない。しかし、冷静になれば、実はみんながこうした要素を自分の中の「影」として含んでいるものだ。影とは、ユングの概念で、その人の人格において未開発あるいは未発達の部分、いわば光のささぬ暗い未だ生きられていない部分のことを言う。ひとたびこれらが他者に投影されると、自分にとって厭な存在、嫌いな怖い存在とうつり、敵対したり、疎外したりすることがある。このことこそ、精神疾患を患う人々へのいわれのない偏見を構成するからくりの一つなのですが…。
#5
先に『青年期』を書いた笠原嘉先生は、こうした精神の「病理」像の考察からひるがえって「正常」とは何かを問う、という手法を≪病理法≫と呼び、病理像の中にいわゆる正常像においては覆われて見えないものの顕われを見よう―とされたが、私もつとめてそう努力した。私は、一つの「特殊」な病態やあるいは治療経過の中に、真の意味での「普遍」や、人間としてのあるべき生き様を見出して生きたいと考えている。
#6
私は、児童精神医学と分析心理学の二つの立場を臨床経験の中で融合させ、私なりの方法を模索してきた。私の方法というのはおおよそ2本の柱からなる。1つは「少年といえども“完全な一個の人格”であって成人同様の尊敬と愛情とをもって接する」という、当たり前のこと。もう一つは「少年たちの“内的なイメージ”を主な媒体として関わる」ということだ。内的イメージと言っても、それそのものはとらえどころのないものだ。だから、それらが外界に導き出されて形をとったものを使用する。具体的に言えば、絵画であり、夢や箱庭であり、あるいは写真であり、といった視覚的なものから、詩、散文、手紙といった言語によるものなど、何でもよいのである。無論それらは私の方が押し付けるのでなく、クライエント1人ひとりのもつ「窓」に私が同調する中で見出していくわけだ。
#7
大人の場合、精神療法として、たとえばフロイトの「自由連想法」やユングの「夢分析」など、≪言葉≫が媒体として用いられる。子どもの場合、この言葉そのものがよく分化していないから使えない。子どもは遊びや絵画の中に、ごく自然に自分の心像風景を投影する。これまで症状としてしか表面化していなかった心の中のわだかまりが、このようにイメージという形でその出口を見つけると、その表現の中に、それまでは内にこもっていた感情や情緒が発散していく。さらに、イメージはイメージを呼び、そこに全く新しいつながりが生じ、これまでには見られなかった心の中での統合が可能となって、心の問題が解消していくことになる。