人間が対人関係を結ぶときに不全をきたすことがあり
自分は一種の病気ではないかと悩むことがある
その人はクリニツクに行って
診断してもらおうとする
現在に至っても対人関係不全を測定する血液検査も画像診断もないので
まず話を聞く
話の内容は重大な情報であるが
その語り方も重大な情報である
さらに対人関係不全の特徴は人間である治療者との間にも起こるはずであって
その点では治療者は対人関係不全感知器になっている
人間と人間の間だけに起こる何かを感知して検出する
他に方法がない
その意味では治療者は客観的な判断者ではないことになる
現在はまた考えが違うようだが
昔は精神病を診断するための客観的な基準を作るのは無理だと考えられて
人間と人間の間に起こる微妙な反応を検出するしかないということになった
そのひとつがプレコックス・ゲフュールである
特有なその感じは客観化することができないなにかであるとされた
精神科病院で10年くらい勤めると自然にわかる
それが昔の話だ
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血糖とか血圧とかを測定するように
人格反応を測定するのだが
測定器具があるわけではなく
治療者がそのまま測定機になってしまうところが特殊である
そのようなことの連続に人間は耐えられるものだろうかとの疑問が生じる
すべての対人関係不全が他人を傷つけるものではないので
考えられるほどではないし
ダメージを受けることは受けるのだが
それを知性化して分析する方法も知っているので
多少は忍耐できるようになる
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たとえば
ボクシングでボクサーのパンチがどの程度のものかを知るには
なにも顔面に受ける必要はないのと同じである
手のひらで受ければ、まずまず分かる
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世の中には恐ろしい人もいて
困っている人をつかまえて
さらに複雑に困らせる人がいる
そんな場合には
その複雑を解きほぐすことから始めることになる
もちろん善意の人なので
善意はやむことがない
それが困ったところだ
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もちろん治療者が完全な人間であるはずはなく
過剰も欠損もあるのが普通である
ただそのことを明確に認識していれば足りる
そのことに盲目であるなら、なるべく早く気付いた方がよい
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その意味で
いつも一定の状態で「測定」するように心がける
不足は不測なりに、過剰は過剰なりに、一定にする
その「測定」は客観的ではないし、広く一般に共有できるものでもない
しかし自分なりに一定にコントロールすることで
精神機能や対人関係「測定器」としての精度は向上する
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こうして考えてくると
画像診断や血液検査以上の複雑繊細微妙なプロセスがあるわけで
それを検査技術として評価しないのは
やはり見識が不足していると思われる
巨大な装置がなくても測定できるし
逆にどんな巨大装置でも測定できないものなのだから
なかなか興味深い
憂うつだと言ったからうつ病とか
幻聴が聞こえていると言ったから統合失調症とか
そんなフラットな世界に一度住んでみたいものだ
さぞ悩みの無い生きやすい世界だろう
血圧がいくつ以上だから高血圧とか
うちのおばあちゃんはそのくらいフラットな知性と感情の人で
なんとも幸せそうだった
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おばあちゃんは物事の判断について悩みが無く疑問がないのである
理解できないことはたくさんあるが
それは自分の頭脳に限界があるからで仕方がないと諦めている
しかしそのような高度な知識を必要とすることは
自分の人生には起こらないはずなのだから心配はないのである
そう言われてみれば
おばあちゃんの人生には量子力学は必要なかったような気がする
そして私の人生にも必要はなかったような気がする
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人と接している時の味わいとか質感とかにじみ出るものとか
相手の心に引き起こされる何か
それは量で測定することは困難で
いまだに質を表現する言葉で語られるのみである
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たとえば妄想の「強度」を測定して、回復を測定しようとの試みがある
しかしそれも難しいところがあって
妄想の変化は強度でもあるが質的な変化でもあるだろう
色彩を波長に変換して測定可能なものにしたように
精神を脳神経ネットワークの働きに還元して測定できないかと試みが続けられている
そのようになれば
治療者は自分で変化を受けなくても
変化を受ける人を用意して、その人の脳神経細胞の変化を測定すればよい
そうなれば随分一般内科に接近する
そうならないうちは、治療者は自分の受けた変化を分析することで診断しているのである