外側の仮面 外界との皮膚と割り切る

本当の自分なんて考えなくていいです

そのグループのその場面だけで
あたかもぴったりであるかのような演出をするだけでいいでしょう
大根役者くらいにはやれる
太宰治なんかの文章で出てくる嫌な感じは考えていればつらいんだけど
みんなそうらしいと思って
外側の自分を作ればいい
外側の仮面
外界との皮膚
たったそれだけなんだよ
空気が読めないとかいうんだけど
空気が読めてる人と違わないように振る舞う学習はできる
算数を習うのと同じでしょう
誰でも最初から
面積を考えられるわけではない
学んで習って外側の自分を作るのだ
学んですなわちこれを習う
わたしは最近は論語の始まりの一句をそのように解釈している
荀子では学はもってやむべからずという
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そのあたりのコーチなら出来るでしょう
社会と接する部分は仮の自分でいいではないかとその場だけの仮面を勧めるとする
どのように人は交流するものか
自分が本当に納得するとかは別にして
たとえばいまそこに集まっている4人はどのように反応するのか知っていればいいし
それだけのことだ
それを観察して勉強して対策すればどうだろう
そのことのコーチならば少しは出来るかもしれない

多分、自己の中核を改造する必要はないのではないかと思うんですが
そのような適応でいいのじゃないかと

人間は分裂器質的なコアの自分の外側に社会的な循環器質的な皮膚を作っているでしょう
その外側の皮膚を学習によりつくる感覚
それは先輩として教えられる範囲ではないかと

だから東京のサラリーマンを応援できる部分があるのだと思う