理系の学生は文系の学生を「馬鹿にする」ことが少なくない。
確かに英語を母国語とする国々では「誰でも話せる」はずの「英語」の成績のみで、日本では「一流」と呼ばれる大学に入れてしまうのだから(上述の一流私立大学の中には英語のみの入試もあるし、また実質的に配点等からそれに近い入試も多い)、こと「受験」という「機会平等主義的」で「公平」とされるシステムにあっては、数学や物理・化学で好成績をあげた人間が、文系を「よからぬ存在」と見るのも、心情的にわからぬではない。多くの一流国立大学理系学生は、少しだけランクを落とせば(またはランクを落とすことなく)一流国立大学文系学部に合格可能(いわゆる文転)だが、多くの場合、逆(理転)は絶望的に困難である。
一流国立大学では文学部等であっても2次試験にほぼ数学が必須であることに加え、一流私立大学に対する相対的地位が理系と比較して低いため、数学受験が必須でない私立大学に対する一種の怨恨、すなわち「数学もできないくせに」といった思いは凄まじいものがある。同様に、理系一般の文系に対するそうした思いもまた根強い。
確かに人間の頭脳の性質と入学試験の難易度の関係上、「英語」や「文系数学」などではなく、「理系数学」や「物理」等の試験による選別によるほうが、より「狭き門」になることだけは確かだろう。平均的な「高校1~2年生」などの段階で将来の進路が明確に定まっている者はそう多くないため、結果として科目の得手不得手により理系・文系が選択されやすい。結果として「数学や理科が難しいから」文系に進むケースが多く、母集団の平均レベルも大きく異なる。上述のとおり、理系から文転することは逆と比べて容易であるから、通常、学力の高い者は「とりあえず理系」となりやすいものだ。実際、センター試験受験者のうち「理系」は、「文系」に対して、文系科目を含めて全科目において平均点が高いのが通例である。
ちなみにこの種の傾向は日本だけではない。たとえばフランスの大学入学資格試験である一般バカロレアにおいても、理系(Scientifique、通称S)、文系(Littéraire、通称L)、経済・社会系(Economique et sociale、通称ES)のうち、理系が最難関であると一般的に考えられている。理系セクション卒業者は全ての分野の職業に就けるとされており、その結果、明確な将来像がない若者は理系進学を希望し、近年理系セクションの生徒数増加、そして経済・社会系の生徒数減少という現象が見られる(070530ウィキペディア「バカロレア」より)。
しかしながら、実際に社会に出た際に、数学や「数学的思考力」といったものが役に立つ経験はきわめてまれであるとともに、よく言われる「論理的思考力」とそれらの相関もはなはだあやふやであり、「学歴」全体が「無意味」であったのと同様に、そのような「能力」の計測そのものが何かしら幻想的な儀式性をはらんでいたということに気づくべきである。われわれは言ってみれば、「ケンダマの才能」程度に無駄な性能を計測されて大学に入学するのだ。いくら狭き門だったからといって、ケンダマができなかった者たちをことさらに批判し、さらには「ケンダマができないくせに」と言いはじめてもしょうがあるまい。ケンダマのできに優越感を持つことをまずは恥じるべきである。どうせそれによって世界一流に立つ人間は皆無に等しいのだから。
もちろん、研究水準において日本の自然科学系統の多くが世界でも通用するのに対して、おしなべて社会科学系統は弱く、人文科学系統は日本語の壁に守られるだけの存在に近いというのは事実である(それゆえ、歴史的に見て、一流国立大学の学長は一流国立大学の理系学部出身がほとんどなのである)が、それらはほとんどの学生の実存としての人生とはなんら関係がないことである。
「社会」に出るにあたり、上記一流大学の理系(特に工学系)では就職活動などで困ることはなく(そもそも一流国立大学の工学系等では、「就職活動」自体が不要である)、文系に対して一時的に有利になるものの、入社してしまえば同ランクの大学における文系(特に法学系)の方が出世が早い場合が多いなど、よりいっそう学生たちの繊細な感情(○○大学××学部への帰属心)を煽ることとなる。
これらの事情が、「文系か、理系か」「数学受験をしたか、否か」といった微笑ましい対立を生む原因となる。