ナラティヴを論じる

コーエンのデータによると、「心の理論」については、
自閉症児のうち20%は正しく答えている。
(定型発達児でも15%の子供は正しく答えられない。)
また、自閉症者でも一定の社交性を発揮する者もいる
セントラルコヒーレンス(中枢性の統合、中心的首尾一貫性)とは、
いろいろな情報をまとめて全体像をつかむ力のことで、
自閉症者はこの能力が弱いとされている。
情報の選択能力機能が通常とは違う
通常なら不必要だと見なされ無意識に省かれる些細な情報も、いちいち受け止めてしまう
昔でいう、統合失調症のフィルター理論である
情報は溢れ、目の前の処理に追われる
事象を大まかに捉えてカテゴリー分けすることは出来ず
全体像がつかめない
外部刺激を抽象化せずそのまま受け止めてしまう傾向がある
特徴を掴んで大まかにカテゴリー分けすることが難しい
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知能指数が20以下で運動能力が極めて低い場合でも、
音楽や踊りになると、ぎこちない動きは消えてしまう。
音楽があると、どう動けば良いか分かるからだ。
単純な仕事さえうまくこなせない人々も、
音楽が入ると、完璧に行うことができる。
体系としては把握できないそれらの仕事を、
音楽にはめこまれたものとして捉えることができるからだ。
演劇の役を割り振り、物語の登場人物になりきれば、
セントラルコヒーレンスの欠落は補充できる
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重度の前頭葉損傷者は、知能は損なわれていないのに、
簡単なひとつつながりの動作が出来なくなる。
このような場合、通常のリハビリテーションでは効果がないのだが、
音楽に合わせると、これらの欠陥は瞬く間に消え去ってしまう。
抽象的で体系的な方法が役に立たない時にも、
音楽は組織としてまとめる力、効果的に楽しくまとめる力がある
トゥレット症候群のチック症状も、音楽で踊っている時には現れない
何かの役割になりきって、事を進めるのも有効である
いくつかキャラクターを作っておくことは、スムーズに対処をする上で有効だ。
キャラクターの選別は、場に合わせて行わなう
概念的能力が劣っている場合においても、
音楽や演劇や物語には、こべく具体事象をまとめあげる力がある。
一定の枠組みがあれば、格段に動きやすく理解しやすくなる。
理論の枠組みとはそのようなもので
概念相互の関係を語るのが理論である
たとえばエネルギーと質量と光速の関係
ナラティヴを論じるときにそのような視点もあると思う
バラバラだったものが、一枚の織物につながるときうれしい
細部に意味が宿る
間隙に充実がある
そのようにつなぎ合わせるものが
理論であり音楽であり物語であり演劇である
抽象化とか概念化が理論化の前提となるが
それが不得意な場合は
音楽でも演劇でも対等である
物語を対等物とみなせばナラティヴ・セラピーである
理論化が労力の節約になるというだけだ
しかし節約しないとたくさんの体験はできない
音楽を早送りしても楽しくないでしょう
演劇を早送りしても楽しくない
物語は全部読むのが惜しくなる
理論は場合によってはすばやく処理できる利点がある
しかしそれだけだ
われわれ一般人にとっては物語で充分ではないか
自分の内部の物語をリアルタイムに語ればそれでいい
圧縮もしない、早送りもしない、省略もしない、嘘も編集もなし
それが人生だ
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理論は非常にしばしば嘘を付くために使われる
合理化に使われる
それよりはナラティヴの方がいいとも思う
しかし抽象的な説明が難しい
もともと理論にならないもの、理論では省略されたり圧縮されるもの
そこに混じる嘘が耐えられない場合ナラティヴのほうがいい
できるなら実時間・リアルタイムでナラティヴをしたい
それ以外は理論化を含んでしまうことになる
しかしリアルタイムをナラティヴすることは実人生を生きることにほかならない
ここで行き詰まり
語り始めたとき概念化の始まりであり、嘘の始まりである
沈黙する、そのような集結は見えていて鮮やかである
ナラティヴを「論じる」とは
幾何学をわざわざ代数で解くような不思議さである
ただ生きればいいのだ