抽象化された世界と生き生きとしたリアルな世界

こんな意見を紹介
人間は、普段、無意識に感覚がある程度抑制をされている。
以前、概念化という問題について記事にしたことがあったけど、人間は普通は、事物から受ける刺激を、直接ではなく、ある程度抑圧して受けるようになっている。
外から受ける情報(刺激)を、そのままの具体的な個々の姿ではなく、ある程度脳で抽象化をして、知覚しているのである。
この抑圧が外れて、より具体的な世界になるとどうなるか。
物事から受ける感覚は、それまでの抽象化された世界とは違い、実に生き生きとしたリアルなものとなる。
ここで、上記の本の内容を適当に意訳して、抜粋してみる。
(引用始め)
以前、コカインなどの薬物中毒で嗅覚が非常に敏感になった青年がいたのだが、彼は同時に色彩感覚も鋭敏になり、直感的な視覚的能力と記憶力がひどく高まるようになった。
今まで同じにように見えた色も、違うように見えるようになり、以前は絵を描くなどということや、心で物を見るなどということは出来なかったのに、まるで高感度のカメラを持っているかのように、事物が正確に紙に映し出されているように見え、正確な絵の描写が出来るようにもなった。
そして、嗅覚がするどくなったお陰で、臭いだけで、人を見分けることが出来るようになり、その人の感情まで(恐怖や満足、また性的な状態まで)嗅ぎ取ることが出来るようになった。
彼は、街を臭いだけで迷わず歩くことが出来るようになった。
嗅覚のもたらす快感は強烈だった。(また不快感も。)
しかし、臭いは快不快だけの問題だけではなく、美意識や判断にも影響を与える重要なものとなった。
彼は、嗅覚が敏感になる前は、どちらかというと知的で、あれこれ考えて抽象化をする方だったのだが、いまや個々が持つ直接性に比べたら、考えたり抽象化したり分類することは、なんとなく難しく、真実味がないように思えるようになった。
「きわめて具体的な世界でした。個が重要だったのです。ひとつひとつが恐ろしく直接的で、全てを生で感じるんです。」と彼は語った。
この感覚は、その後正常に戻ったのだが、彼はほっとすると同時に、残念がった。
感覚が正常に戻ると、生気なく色あせた世界、感覚も平板で、具体性にとぼしい抽象の世界に戻ってしまったからだ。
彼は、人間は、文明化の代償として、これらの感覚を失ってきたのだということがよく分かった。そして、人間には原始的なものも必要なのだということも。
(引用終わり)
この脱抑制は、どのような状態で起こるのかというと、ドーパミン過剰状態で起こるといわれている。
また、私が感じていたような恍惚とした世界は、てんかん発作でも起こることが知られている。
光が降ってくるような状態などは、偏頭痛が起こる前の前兆現象にも少し似ているようにも思った。(閃輝暗点)
側頭葉てんかんでは、体外離脱や既視感や宗教的法悦のようなものが起こることがある。
このようなてんかんの経験をした歴史上の人物ではドフトエフスキーが有名である。
(この説には異論もあるようだけど。)
ドフトエフスキーは次のように語っている。
「ほんの五、六秒の短い時間だが、永遠の調和の存在を感じるときがある。恐ろしいことに、それは驚くべき明晰さで姿をあらわし、魂に法悦をもたらす。もしこの状態が五秒以上続くなら、魂はそれに耐えられず消滅してしまうだろう。この五秒間に、私は人間としての全存在を生きる。そのためなら、私は命も賭けるだろうし、賭けても惜しいとは思わないだろう。」
私の持つ感覚が一体なんなのか。
かなり見えてきたように感じている。
今のところ、ドーパミン過多で感覚が鋭敏になっている可能性が一番影響力があるようにも思える。
それから、光が見えた時は、閃輝暗点状態になっていたか、軽いてんかん発作だった可能性もあるのかもしれない。
私自身はてんかんという診断は受けたことがないのだが。
また、ドナ・ウィリアムズなどの自閉症者が、似たような感覚を持っているのは、物事を抽象化することなく具体的に受け取るという性質や、感覚が過敏であるということも関係しているのではないか、と思う。
私の場合、何かしらの原因で生まれつき感覚が鋭敏なのだろうと思うのだが、ドーパミンなどの可能性はあるけれど、原因は一つではないとも思っている。
(ちなみに、私も嗅覚は敏感な方であり、その他にも触覚や聴覚など割と過敏であったりする。生まれ持った感覚のレベルの問題もあるのかもしれない。)