自己愛人間の他者認識

自己愛人間にとって、
まず他人というものは、敵か味方かに区別される。

味方はきわめて少数の例外を除いて、すべて自分の家来である。

それって、牛若丸的世界ねと言われるとまさにそうなのだ。

自分は源氏の御曹司で、他人というものは、味方ならば全部自分の家来である。
味方でなければ敵である。

牛若丸の場合にはそれで客観的にも正しいのだから何も問題はない。
精神医学的な問題はない。

客観的にみれば普通の人間、その他大勢に分類される人間が、
自分のことを特別だと思う精神構造が問題なのだ。

普通、学校に行って職場に行って日々の生活を送っていると、
自分だけが特別なのだという認識はだんだん維持できなくなるはずである。
自分もその他大勢の中の一人なのだと思い知らされるのが人生というものだ。

それなのになぜか、いつまでも自分だけは特別だと思っている人たちがいるものである。
それが精神医学上の不思議の一つである。

メカニズムの一つしては、「引きこもり」がある。
世間から引きこもることによって、
自分の平凡さを確認する機会を減らすことができる。

ゲームをやったり小説を読んだりしていれば
しばらくはヒーローやヒロインの気分でいられる。

傲慢で、賞賛を当然と思い、人の気持ちに鈍感で、しかし一方で臆病である。
このセットは、親に大事に育てられれば、当初はそうなるはずのものである。
しかし学校に行くなどして世界を経験すれば、それは訂正される。
他人も自分と同じように自分を重要だと思っていて、
その意味ではみんなが同じように平凡なのだと知る。

そのような成長のプロセスが停止してしまう場合がある。
一般に言えば他者との交流不全がある場合で、
理解されないのは、相手がバカだからと思うことになる。
すると自分の傲慢は正当化される。
自分はすばらしいのだから賞賛されて当然である。
相手はバカなのだからそんな人間の気持ちには鈍感でもいいはずだ。
しかしそのことを客観的に正当化する材料がそろっている場合は少なくて、
むしろ、そのような確信が破られることを恐れつつ暮らしている臆病な人が多い。

臆病だから引きこもり、自分の空想的な万能感を維持しようとする。
世界を狭くすることで、安定させ、不意打ちのない、確実で、予測可能な世界にとどめておこうとする。

このあたりは強迫性障害の心理とも共通する部分がある。
出たとこ勝負なんてできないのである。
確実な世界で生きたいのである。

というような具合で牛若丸が普遍的なヒーローになるのも理解できる。
危険すぎる世界から身を隠しておく必要がある、才能ある人物。
自己愛人間の求めているものである。