適応障害

差別撤廃の話の中で、
解説の人が、現代は能力主義の時代で、
出自で人を差別してはいけないというようなことをいう。
正確ではないが、そんなことを言ったように思う。

うっかりするとそう思うが、
果たして能力なんて何なのだろうかと思う。

エクセルのシートを速く作ったところで、それがそんなに偉いのかな?
とんでもなくすごい作表をする人もいるけれど。

何ヶ国語も理解して、喋る人もいる。

すごい勢いで他人に話して、サインさせてしまう人もいる。

それって、評価されることなんだろうか?

たとえば、高いところに実っているバナナを取るなら、
背の高い人またはジャンプできる人が「能力」のある人だ。
バスケットボールの選手のような人。

たとえば、洞窟で暮らすなら、背の高い人は決定的に適応障害で、
いつも頭にこぶを作っているだろう。

「能力」とか「適応」とか、それだけの意味しかないだろうと思う。

隣人に優しくできますか?と問いたい。
あなたが今日接した人に、できるだけ優しくできましたかと問いたい。

変な世の中におかしなように適応しても、
自分は幸せにならないし、人を幸せにしない。

田んぼを作っていた先祖は、
しゃがんで地面に苗を植えたはずだ。
きちんと間隔をあけて、几帳面に。
何日も続けただろう。
その後はしゃがんで草取り。
背の高い人なんて、役立たずである。

また、草原を馬で駆け回る人たち。
その場合、自分の体重が軽い人が有利である。
お相撲さんやバレーボールの選手はだめで、
武豊のような、小柄で俊敏な人が「適応」する。

結局、環境によるわけだ。

ということは、自分に適した環境を選ぶ力は本質的な能力かもしれない。

与えられた環境に必死で適応しても、あまり偉いとも思わない。
そもそもそれはどんな環境なのか?と問う能力が必要だ。

わずかのものでもみんなで分け合うとか、
お年寄りを大切にするとか、
そんなことができない世の中なら、
わたしはこの世界への入場券を
神様にお返しすると
言う人もいる。

「能力」を簡単に定義できるわけではないので、
慎重に考えよう。
「適応」は能力の裏返しでしかない。
「能力」や「適応」ではなくて「その人にとっての幸せ」が大事というしない。
そして、その先は、定義もできない。

わたしなら、神様に対して、誠実であるか、その点だと思う。
神様は無言のままでわたしに問いかけている、
それにどのように行動で応えるかだ。
それは能力でも適応でもなく、何と言うのだろう。

人生の苦難に際して、そのようなことを思う。