カウンセリングの場を、
「何を言っても絶対に批判されない、
ここは絶対に安全な場所だ。」
相談者が本当にそう感じたとき、
やっと本音で話し始めてくれます。
カウンセラーは、
相談者の気持ちを絶対に批判せず、
認めてあげることが仕事。
ーーーーー
このような素直な心は大切ですね
子供の頃はこんな心で生きて欲しいです
でも、大人になったらもう少し賢くなりましょう
本音を言うのがカウンセリングと?
ここは無批判の安全な場所と?
カウンセラーは、相談者の気持ちを絶対に批判せず、認めてあげることができるでしょうか
できるはずがありません
言葉の上で認めたとしても、顔も仕草も否定しています
さらにもっと全体的な雰囲気で相談者は否定を感じ取るものです
そしてその自然な否定が相談者に何かを気付かせるわけです
治療者ほどの人がやはりそう思うかというところで
社会の壁の厚さというものを知るわけです
カウンセラーに肯定されて、すっかりいい気分になって
また部長に怒られて、それでいい気分でいられるものでしょうか
肯定されてすっかりいい気分になって何が変わるか
いい気分になって変えられることなんか大したものではないんです
すべては苦しいことから生まれるものです
苦悩に発して苦悩に終わる
人間は何かに接したときかならず価値判断をします
いくつもの可能性を考えて多面的な価値判断をするのが豊かな人間ではありますが
その場合も無批判ということはないわけです
表面的には批判はしませんが奥深いところでは賞賛もし批判もし
いくつもの想念が駆け巡る
そんな中での時間ですから
決して批判なしの肯定ばかりということはありえないのです
眼の奥が肯定していないのです
浅いやりとりの中で
治療者の側に何の考えもなく、ただ全面的に肯定し
相談者の側は治療者の眼の奥に何も読まず、ただ肯定されたと喜び安心し、
それでおめでたくことが運ぶものだろうか
治療者の側には自己一致の原則が求められる
現在生きている人生と
今まで生きてきた人生と
診察室の中での時間が
矛盾することなく一致していることが求められる
外と中と昔の一致である
そのような場合に、患者のいろいろな話に対して無批判の共感というものがありうるはずがないのであって
むしろ全存在を賭けた賞賛または批判があるはずなのである
それが真に人間的な深い出会いというものだと思う
そしてそのような真の出会いであればこそ、
賞賛ばかりではなく、批判もまた、ありがたいのである。
ーーーーー
「何を言っても絶対に批判されない、ここは絶対に安全な場所だ。」
これを私は竜宮城と呼んでいます。
竜宮城ではいいとしても現実の世界に帰ったときに不適応となります。
そしてそこで出会う絶対肯定の治療者は嘘つきです
治療者の心の奥に何があるか、直視してください
何も無いなら、もう何もいうことはありません