家持に、秋歌四首というものがある。
ひさかたの雨間もおかず雲隠り鳴きぞ行くなる早田雁がね 8-1566
雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ 8-1567
雨隠り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり 8-1568
雨霽れて清く照りたる此の月夜又更にして雲なたなびき 8-1569
一首目は「早稲田」、二首目は「秋田の穂立」そして三首目は「春日の色づき」と段階的に黄色を濃くしていると言われている。四首目に至って完全に無彩色の世界になる。
まあ、そういえばそうだけれど。
雁については、雨隠りを余儀なくされている家持が、雨なかでも平気で飛んでいる雁を羨ましく思っている。私は雨にこもらざるを得ないのに、それなのに雁はいいなあということだ。
第四句目は原文「又更而」でこの訓については「ヨハフクルトモ」(童蒙抄)、「マタヨクダチテ」(井上新考)、「ヨクダチニシテ」(佐々木評釋)などがあるが、「私注」や「注釋」の「又更にして」を採るとの意見だが、どうなのだろう。よく分からない。触れないことにする。
橋本さんは、「清らかな月を美的対象として鑑賞しようという態度、愛惜のあまり再び雲のかかることに不安を覚える心理的動揺の表現、の二点をあげられる」との解説なのだが、わたしにはついていけない。
不安とか心理的動揺とか、何?
月夜に雲がたなびくだけだろうが。きれいだなで、充分だ。
過剰に恋愛感情に結合させるのも反対。
雨隠り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり
ならば、あめで憂うつ、山は黄葉、それだけのことだと思うが。
雨だから女に逢えないので欲求不満で憂うつなんて、どうかしている。
それとも、みんさんそうなんですか?
絵としてきれいなだけだと思う。