心療内科や心身医学などの第一ページに、
こころとからだは切っても切れない関係にあります
なんて平気で書いてありますね。
第一、切っても切れない関係なんていう言い方が、
正確な意味に乏しい。
だって、具体的にどういう関係なんだか、ちっとも分からない。
まあ、それはそれとして。
現状では、心とは、脳を中心とした神経系の働き全般を指すあいまいな言葉だと思う。
(なんていうことをうっかり言ってはいけない難しい理屈もあるけれど。)
脳は、当然体の側に入るのだと思う。
さて、こころというのは、からだと別にあるとでもいうのだろうか。
消化とか、歩行とかと同じく、精神作用というものがあって、それをこころと呼んでいるのだ。
(ここも難しい議論がある。)
こころとからだは切っても切れない関係にあります。
というのは、好意的に解釈すれば、
カルテジアンの現代版ということになるのだけれど、
無理。
と、ここまでは普通に現代的に考えられるのだけれど、
哲学者はそうはいかない。
もっと深遠な意味で、mind-body-problemを議論している。
わたしにはほとんど神学議論のように思われる。
治療に応用できるいいお話などひとつも聞けない。
Interactionism や Identity Theory のこと。
こころとからだの相互作用はどのように生じているかという、デカルト以来の問題。
たとえば、ストレスが、頭痛をひきおこすという場合、
こころがからだに作用していることになる。
これは、現代的にすごく単純に言えば、
ストレスが、脳内の神経伝達物質に影響して、
体内でいろいろな物質変化があって、
それが頭痛となって知覚されているのであって、
心とからだの相互作用なんてどこにもない。
からだだけで説明できる。
また逆に、脳梗塞を起こしてうつ病になったという場合、
脳の特定の部位の機能不全が起こり、うつ病になったというだけで、
これも、心とからだの切っても切れない関係というものではない。
からだだけで説明できる。
脳と、狭義のからだの関係といえば、それで済む次元のことだ。
そして広義のからだは、脳をも含む。
そしてそれ以外には何もない。
だって、精神的に悩む人を、温かい一言が救ったりするではないかというなら、
つまりは、その温かい言葉が、知覚神経を通って、脳に変化を起こしたということだ。
それですっきりするだろう。
認知療法も、精神分析も、煎じ詰めて言えば、
言葉の物理的力が、脳の構造を変化させているのだ。
それは言葉の意味であってもいいし、音圧でもいいし、トーンでもいい。
眼球と視覚は切っても切れない関係にありますといわれたら、
当たり前に過ぎない。
こころとからだは切っても切れない関係にありますというとき、
漠然と暗黙のうちに、デカルト的二元論が前提とされているのだ。
デカルトの場合、こころという実体(霊魂)があって、松果体をゲートにして、心とからだが相互作用を及ぼしあっているというモデルである。
霊魂ですよ。
さて、そんなことを本気で言っているのだろうか。
あるいはそんなことを知らずに、単純に、うわごとのように、
こころとからだの切っても切れない関係、
などと言っているのだろうか。