経験から理論を帰納する

ヒュームの問題
発見の論理というのは長い歴史をもつ認識論上の難問である。これを最初に明確な形で提示したのはデヴィッド・ヒュームだろう:
すべての事実の逆は矛盾をもたらさず、同じ精神と明晰さで認識できるので、つねに可能であり、事実と同じように想定できる。あす太陽が昇らないだろうという命題は、それが昇るだろうという肯定命題と同じく意味があり、矛盾も生じない。だからそれが誤っていることを証明しようとするのは、無駄な試みである。(『人性論』第4部第21節)
きのうまで太陽が昇ったことは、あすの朝おなじようにそれが昇ることをまったく保証しない。たとえ歴史上、一度も例外がなかったとしても、あすがその例外になる可能性は否定できない。どのように多くの経験からも、理論を帰納するロジックは存在しないのである。このパラドックスは単純だが強力で、カントをして「独断のまどろみ」から目覚めたといわしめ、いまだに解決した人はいない。
逆にいうと、経験から理論が帰納できないとすると、われわれの認識はすべて独断だということになるが、まさかそうもいかないから、そこには人々に共有される意識があるのだろう。これをカントは超越論的主観性とよび、フッサールやメルロ=ポンティは間主観性と呼んだが、こう言い換えてみても実態が明らかになったわけではない。
ただ、いかにも科学基礎論のようにみえるカントの観念論より、ヒューム的な懐疑主義のほうが科学の発展に貢献したことは興味深い。エルンスト・マッハはヒューム的な感覚一元論を物理学にも持ち込み、ニュートン力学の基礎になっている絶対空間の概念は感覚的に検証不可能な形而上学だと批判した。これを読んだアインシュタインが相対性理論の着想を得たことは有名なエピソードである。彼はマッハへの追悼文でこう書いている:
私の仕事にとってマッハとヒュームの仕事が非常に助けになった。マッハは古典力学の弱点を認め、半世紀も前に一般相対性理論を求める直前まで行っていた。彼が光速の一定性が論争になっている時期に生きていたら、マッハこそが相対性理論を発見したであろう。
マッハは楽譜の例をあげて、ある旋律をすべて半音ずつ上げて演奏しても、ほとんどの人には違いがわからないだろうと論じている。これを彼は時間形態(ゲシュタルト)と呼び、これがのちのゲシュタルト心理学の出発点となった。音楽を成立させているのは一つ一つの音符ではなく、それらを時間的に結びつけている「ゲシュタルト質」なのである。
ところがその後の科学哲学は、命題→演繹→検証→帰納→理論というサイクルで科学が発展するという論理実証主義が主流となり、これにポパーの「反証主義」が対立した。ポパーはヒューム的な懐疑主義にもとづいて、いくら実験で命題を検証しても、その反例が出ない保証はないと批判し、理論が科学かどうかは反証可能性によって担保されると主張した。
しかし、ある反例が理論を否定するかどうかも自明ではない。有名な例としては、地動説に対する反証として「年周視差」が観測されなかったという事実がある。年周視差とは、地球が公転しているとすれば、遠くの恒星の見える角度が季節によって変わるはずだというものだが、16世紀の望遠鏡では観測不可能だった。つまり、ある観測や実験がパラダイムを反証するかどうかもそのパラダイムに依存するわけだ。
他方、前のプランクの例のように、古典力学と明らかに矛盾する反例が見つかっても、それがすぐ放棄されるわけではない。世界中の物理学者が依拠しているパラダイムを否定するには、それに代わる新しいパラダイムが必要だからである。要するに科学も宗教も、カトリックやプロテスタントといった教義(パラダイム)を共有した上でしかコミュニケーションが成立しないという点で本質的な違いはなく、ただ事実を観察していれば新しい発想が生まれてくるということはありえないのだ。
事実から仮説を帰納するアルゴリズムが存在しないというヒュームの問題は、近代哲学の最大の難問である。アブダクションはそれに対する解答の試みだが、成功とはいいがたい。たぶんタレブもいうように、そういうアルゴリズムがあるはずだと考えること自体が間違いなのだろう。
しかしアルゴリズムがないと考えるのは人間の脳の原則に著しく反しているので、考えにくいのだが、考えにくいのは単に脳の習慣である。
事実の背後にあるアルゴリズムを私は求め続ける。
アルゴリズムがあると仮定すること自体が誤りなのだと言われても
これだけはやめられない
私はこのようにして考えてきたのだし、このようにして生きてきたのだ
いくつもの事実の背後にある隠されたアルゴリズムを求め続けている
医学の基本部分は素朴実在論的である
宇宙論や素粒子論ではどのようなアルゴリズムが可能であるのか、今ひとつ、自信が持てない
しかしいま私が取り組んでいる脳の原則については
ここ200年ほど成功してきたアルゴリズム探求が成功しそうな気がするのだが
わたしにしてみれば、ローレンツにならい、
超越論的主観性も間主観性も超越論的直感も
要するに脳の共通構造なのだと考えられる

ーー
世界が一定の振る舞いをするのは
脳の解釈が一定だからとも言えるのだ