うつ病なのか、単なる過労なのか、適応障害なのか、
判定が難しいことがあります。
うつ状態とは何であるかも、あいまいです。
自律神経失調症や心身症もあいまいに重複しています。
このことを論じるには、まず、
うつ病と、単なる疲労と、適応障害はどこが異なるのかを
明確化する必要があります。
ドイツ・日本の従来の精神医学の立場では、
単に、二週間以上にわたる、強度の精神的疲労を
うつ病とは定義しません。
うつ病には、精神構造として、非了解的な部分があることが要件であり、
長期かつ高度な疲れとは別なものだと考えています。
従来の中核的な「うつ病」は、たとえば、極端に言えば、
「わたしはガンで死ぬことになった。誰も私に本当のことを言ってくれない。」
「貯金通帳に一億円の表示はあるが、これは嘘で、私は貧乏になってしまって、とても生きてはいけない」
「わたしは家族に大変すまないことをしてしまった。もう生きてはいけない。死んで償いをしたい。たぶん、この罪は死んでも償いきれないのだが」
など、それぞれ、疾病妄想、貧困妄想、罪責妄想と名づけていますが、
こういった妄想レベルの精神構造と同じ構造を持っている病者のことで、
それを「うつ病」と定義しています。
その概念の中核は、「非了解性」ということなのです。
妄想になれば、了解不可能ですし、説得不可能です。
妄想に至らないまでも、そのような精神構造があれば、うつ病と判断します。
たとえば、非常に過重な労働を長期にわたって続けた場合、
またたとえば、非常に理解のない上司の下で悪い評価を与えられつつ仕事をした場合、
無理解な妻に苦しめられ続ける場合、
当然に疲労は重なり、ため息も出るはずです。
そのように「了解可能」であるなら、それは「環境」と「能力または性格」の不適合であり、
「適応障害」というべきです。
この点をとらえて、了解可能な病態を「適応障害」、その軽度なものは単なる疲労、
了解不可能な病態を「うつ病」と区別しているわけです。
しかしここには混乱があります。
一般語の「うつ病」「適応障害」の語感。
DSMやICDの「うつ病」「適応障害」の定義。
ドイツ・日本精神医学でいう「うつ病」「心因反応」「神経症」の概念。
これらが錯綜して、混乱している状態です。
DSMでは状態診断と原因診断が混在しているという論理的不合理が生じています。
また、状態診断と了解可能性診断はまったく別次元のものです。
また、抑うつ神経症というカテゴリーがあることから分かるように、
神経症とうつ病が同一平面状の排他的な概念でもないのです。
それぞれについてコメントすれば以下のようです。
一般語として。
うつ病のひとは当然、現実に適応できず、適応障害にいたります。
適応が障害されている人の一部は、うつ病であるはずです。
その点から考えれば、適応障害が広い概念で、うつ病が狭い概念であり、
適応障害はうつ病を含むわけです。
疲労も積もり積もりれば適応障害となり、適応障害が深くなり長引けばうつ病になることもある。
うつ状態はそのあたりのあいまいな移行、あるいはスペクトラムを示す。
昇進うつ病や引っ越しうつ病と言われるようなものは、状況を述べているだけで、
原因を述べているのではない。
DSMやICDでは
適応障害について、、まずうつ病を除外して、
はっきりと確認出来る大きなストレス、及び継続的、反復的にかかり続けるストレスが発症の原因でありなどと原因を指定して、
そのストレスを受けてから、DSMでは3か月以内、ICD10では1か月以内と期間を限定しています。
その他の長期の影響については、PTSDを用意しています。
うつ病は状態像の診断です。原因や性格について言及しません。
適応状態と性格については、別の軸で診断します。
もちろん厳密にしたいのですが、実はあいまいなものです。
ドイツ・日本精神医学では、
了解可能なものは神経症、
了解不可能なものは精神病、
精神病の中で、周期性があり回復可能という経過をたどり、
主に制止や抑うつや意欲低下の感情の症状を呈し、身体症状をともない、
vitaleな要素があり、
メランコリー型性格を呈するものが、
うつ病です。
精神科病院にはそのような患者さんがたくさん入院していました。
症状の経過についてもよく予測できました。
しかし現在の外来診療では、従来のタイプと異なる「うつ」が見られています。
従って、それについて、いろいろな新型の提案があります。
一般日本語の理解は学問的には誤解です。
でも、一般語ですから、好きに使えばいいと思います。
流行にも左右されていいし、あいまいでいいと思います。
DSMやICDの定義は、統計のための一時しのぎの定義であり、
今後検討が続けられ、改訂されてゆくはずのものです。
現状では、核心ははずしているというのが、印象です。
しかしこれがグローバル・スタンダードです。
ドイツ・日本精神医学は正直に言って、斜陽産業です。
大切な真実を含んでいると、個人的には確信していますが、
グローバル・スタンダードではありません。
単に私がそのような教育を受けたことの結果なのかもしれません。
実際の入院患者さんについて、予測がたち、それがぴったりあたるのですから、
科学として成立しています。
しかしそのことも、医者の側の思い込みであった側面は否定できません。
ドイツ・日本精神医学のパラダイム内での話だと言われればそうなのかもしれないのですが、
その内部にある人間にはそれは見えにくいことです。
また、精神分析学もありますが、
こちらも斜陽産業のようです。
参考にはなりますが、一般内科の先生には、もっと分かり易く伝えたほうがよいでしょうし、
分かり易く伝えれば、多分、
精神分析学の用語は解体されるものかもしれません。
学問的に多少あいまいになっても、分かり易くはなるのです。
当分、その中間を揺れ動くでしょう。
了解可能性についても、単に気持ちが分かるというものでもないので、
一般的に考えれば、そんなものが厳密に定義できるとは思えません。
時代により地域により違ってしまうのですが、
単に多数決で決まるものではないものです。
たとえば、イスラム教という文化の内部でも、「非了解性」は成立しているのです。
昔の入院病棟の患者さんの中にはくっきりと非了解性はあったと思うのです。
その明白さは、なんとも、明白としかいいようのないものでした。
いずれ遺伝子レベルか脳科学レベルで解明され、定義されると思いますが、
それは確信または予定主義に過ぎないといわれれば、その通りなのです。
現状では、
「ドイツ・日本精神医学でいう了解可能性」と表現するしかなく、
結局、自転車の乗り方や水泳の仕方のようなもので、
できる人には自然にできるし、
できない人には言葉で教えにくいというもので、
それではとても科学とはいえないといえば、その通りです。
ポパーの言う、反証可能性の明確な科学的命題とはいえません。
それでは、人は自転車に乗れないかというと、乗れる人は乗れるのですから、
なんとも困ったものです。
問題は多々あり、
高等数学のように、分かる人にだけ分かればいいと、決めていていいものではないでしょう。
しかし実際、難問なのです。