「想像力で立場を変換」

生徒指導計画案
1.目標友達に何かしてもらったときにはお礼の言葉を伝える。授業が始まる前に静かに待つ。
一般化して、人に何かしてもらったらお礼を言う。周りの人のことを考えて生活したりできる。
2.目標の理由野菜を食べたくないから食べない。つまらないから授業に集中できない。恥ずかしいから自分の気持ちを素直に表現することが出来ない。朝眠いから起きることが出来ない。
ひとそれぞれ、苦手な事がある。自分にとっては難しいことが存在するのは、当たり前で仕方のないことだ。しかし、これからは自由の中で自分を律すること、自身をコントロールする力が、中学校から大人にかけて求められてくる。
これから先、もっと辛いことや苦しいことがあるかもしれない。これを乗り越えることが出来るのは、自分の心の強さと仲間達の存在である。仲間を大切にできる優しい心、自分の弱さを見つめる勇気、弱さに打ち勝つ強い心。
仲間を大切にする温かい気持ちを持った上で、自分に打ち勝つ強い精神力を持って欲しい。
ーーあったかひろしの感想
さてさて、そうですね、小学生を見て、驚いたと思います。まず授業中も、静かに先生の話を聞いていられない。ましてや授業前には静かに待つことなんかできない。
友達に何かしてもらったときにお礼が言えない。感謝を伝えられない。これも生徒としばらく暮らしていると分かることですね。ソーシャル・スキルが蓄えられていないのですね。
わたしの考えでは、自分の立場と、他人の立場を変換して、想像できるとということだと思うんですよ、結局は。
大人になって、男と女で立場が違ったりします。そのとき、「どうせ俺は女にはならないから、男性優位を主張していていいんだ」とか、「どうせわたしは男性にはならないんだから女性の立場を守ればそれでいいんだ」とか、もう変わりようのない立場の違いを、敢えて想像力で超えていく力のない人が多いような気がしますね。
貧富の差もそうだし、出身階級の差、遺伝的な負因の差、そのようなものは、「想像力で立場を変換」しない限りは、分かりようがないものです。
人に何かいいことをしてあげたときに、感謝されたらとても気持ちがいいものです。その体験を元に、今度は逆に、自分が親切にされたら、どうすればいいのかを立場を変換して、判断できないものか。
これからお勉強が始まるというとき、緊張して心静かに待っている人だっているわけです。そんな人の隣で、いつまでも騒いでいたら、その人にどんなに迷惑か、立場を変換して、考えることができないか。
自閉症と昔から呼んでいる障害があり、広汎性発達障害とかいろいろな呼び方に変化しつつあります。一つの特徴は、相手の立場と自分の立場を瞬間的に入れ替えることができないことなんです。そのあたりを確認するテストもいくつかあります。自分には分かっているけれど、相手には分からないはずのことを認識して、その上で判断する能力が問題になります。「立場を入れ替えて想像力を働かせる」能力は、小さい頃から少しずつ育ち、大きくなってからも、育ち続けます。
優しさとか思いやりは、そのような心のあらわれです。自分は苦しくない。でも、相手は苦しい。そのときに、どうすればいいのか。所詮、他人は他人だというのも現実です。無限にやさしくなれば、自分を破滅させてしまいます。しかし人間の心はそのように「他人を遮断」するようにはできていません。「人の立場に立って」「痛みを感じる」のです。
そんなわけで、1.目標は、「他人の立場と自分の立場を入れ替えてみる想像力」になるでしょう。
2.の野菜を食べたくないから食べない。つまらないから授業に集中できない。恥ずかしいから自分の気持ちを素直に表現することが出来ない。朝眠いから起きることが出来ない。
については、やはり、子どもたちとの生活の中で、気がついたことですね。
まず細かいことですが、野菜を食べたくないから食べないのと、食べられないから食べないのとでは、違うでしょうか。結局同じでしょうか。人間の意志をどの範囲で設定するか、難しいところがあります。
4つの項目が挙げられていますが、わたしにとっては、恥ずかしいから自分の気持ちを素直に表現することが出来ない。だけは異質であるように思えます。
恥ずかしいから自分の気持ちを素直に表現することが出来ない。というのは、心の弱さでもないし、乗り越えなければならない点でもないように思います。それでいいのじゃないでしょうか。
むしろわたしにとっては、人間はそういうもので、自分の素直な気持ちを言えたことなんか一度もないような気がします。言いそびれた言葉ばかり、わたしの胸の中にたくさんあります。それは弱くてダメなことで、大人になるなら克服していかなければならないのだと言われると、何だか抵抗があります。
野菜は食べた方がいい。授業には集中した方がいい。朝は起きた方がいい。でも、恥ずかしかったら、言いそびれて、そのままでもいいよとわたしは思う。それだととっても損をするけれど、それでもいいじゃないか。恥ずかしいんだもの。
そのくらいは勘弁して欲しい感じはする。
自身をコントロールする力が問題になっている。自身をどのようにコントロールするのか、それも問題がある。世間のよい子のように振る舞うのも方法だし、世間によくあるマイナーグループのように振る舞い、服装とか言葉、考え方まで、そのようにしてみるというのも、方法だろう。精神発達の一時期ということになる。ハードロックの一派のように振る舞うというのも一つの発達の筋道なので長い目で見てあげることだ
最終的には「合理的な判断」に従うのが現代の市民社会の原則なんだけれど、一方で、現実の社会は、非合理的で、美しい心を圧殺するものに満ちている。合理的判断の最低基準が法律になるのだろうけれど、たいして理由のない法律もあるし、むしろ害になっている法律もある。
法律家や教育者というものはうっかりするとアインシュタインやモーツァルトをダメ人間として認定し、矯正しようとするのだアインシュタインやモーツァルトは百年に一度しか現れないのだからあまり気にする必要はないと思うけれど教育者や法律家はやはり視野を広げておいた方がいいと思う
ーー辛いことや苦しいことがあるかもしれない。これを乗り越えることが出来るのは、自分の心の強さと仲間達の存在である。
そうですね。そうなんだと思います。人格類型でいうと循環気質の世界戦略です。
しかしわたしは思う自分の心は強くない、むしろ、弱い
そして仲間はあてにならないわたしは孤独だ
だからつらいことも苦しいこともどうやって乗り越えたらいいのか本当のところはよく分からない
なぜ乗り越えた方がいいのかも実は分からないような気もするしかしわたしの本能は負けないことを命じている
わたしには結局教会に行ってお祈りするしか方法がない教会の指導者も仲間も、ありがたいのだけれど、結局、人間なのであるわたしは神様にお祈りをする何も返事はないけれどそれでいい
返事があればわたしはそれは幻聴だとまず思うかもしれないので神様からは返事がなくて当たり前だと思っている
そう言ってしまっては教育的にもよくないのでやはり仲間は大切だと言いたい気持ちはよく分かる
連帯である人間であるということの、逃れられない基本条件を共有している、仲間としての、連帯
しかしこれを弱者の連帯と言ってしまえば、そこからはニーチェの言う、奴隷の道徳まで、至近距離になる
奴隷も困ったものだけれど、超人にすぐになれるわけでもないだろう
奴隷であることの意味も、超人であることの理想も、理解した上で、現状は現状で、理由があることと、一つの発展段階として肯定する、そのような穏やかで成熟した、現代人でありたいと思うのだ。
しかし、子どもたちに対するときは、もっと理想的で教育的であっていいと思う。