市橋先生の解説 http://www.studio.co.jp/ichihashi/doc/03.html
摂食障害
診断的には神経性無食欲症と過食症(ブリミア)に分類しますが、我が国で多いのは衝動型と称される過食と拒食を繰り返し、自己嘔吐や下剤乱用(浄化行為)を伴うタイプです。摂食障害は食欲の障害ではありません。「他人から自分がどう見られるのかということに関連する自尊心の病理」です。ほとんどが自己愛性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害を合併し、薬物療法は補助的なものでしかありません。経済的な負担はかかりますが、専門的な精神療法が主な治療法です。
近年この障害が増加している背景は女性の「やせることに高い価値がある」という時代価値観が深く関与しています。さらに現代の内的価値の崩壊と外的価値の優位という時代価値観が深く関与しています。
現代の女性は「自分が自分以上でないといけない」という強迫観念に支配されています。その背後には深い自己不信(自分のことを好きになれない)という問題が控えているようです。
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内的価値の崩壊と結果主義はどのように精神発達に影響しているか
はじめに
著者の経験では1985年頃から非定型的な抑うつ症状を呈する青年が増えてきており、この増加傾向は現在も進行中である。これらは操作的診断のⅠ軸診断では大うつ病であるが、抗うつ剤の治療反応が悪く、その病前性格は従来のうつ病がもっていた自責的傾向や責任感の強さ、几帳面、律義、負い目回避というような執着気質やメランコリー型を刻印する性格標識を持たず、「落ち込む」と表現する数分から数十時間という短期に、しかも頻回に繰り返される激しい抑うつ症状、リストカットや怒り、引き籠もり、対人操作、対人的孤立あるいはしがみつきなどを呈する人たち である。彼らはII軸診断では自己愛性人格障害、境界性人格障害、あるいは特定不能な人格障害とされる。
摂食障害も変化し、かつてのような定型 anorexia nervosa という極端な拒食を貫き通す人よりは衝動性が亢進し、過食と拒食を繰り返し、下剤濫用や自己誘発嘔吐、利尿剤の使用、あるいはアルコール症を伴うタイプが増え、リストカットや大量服薬などの行動化を伴うケースが増えていることはすでにいくつかの報告がある。都市型クリニックでは今日、内因性のうつ病よりもこうしたタイプのうつ病が主流を占めているのではないだろうか。
こうした青年や少年を診ているうちに、彼らにいくつかの共通点があることに気がつき始めた。それは挫折に対する極端な脆弱性、自尊心の傷つき易さ、他者によって客観的に評価されうるような外的価値しか信じることが出来ないこと、all or nothing というようなうまくいっているときにはがんばれるが、うまくゆかなくなるとすべての努力を放擲してしまうこと、刹那的であること、地道な努力が出来ないこと、結果が得られないことには関心が持てないことなどである。そのために思うとおりにならない現実に直面したときに抑うつ、怒り、引き籠もりなどを呈したり、やせ願望、リストカットなどの行動化を誘発するようになる。
ある患者に「あなたは結果しか信じられないし、外的価値しか信じられないのだね」と指摘したときに、彼女は激しく抗議して「先生!世の中がみんなそうじゃないですか!誰だって結果しか見てくれないじゃないですか!」と述べたのが印象的であった。「そう。世の中、みんなそうだね。しかし、世の中全部が間違っているとは考えられませんか」と語りかけると、しばらく沈黙し、「私は結果しか求められなかった。結果を出すことだけを目標に生きてきた。こうした生き方が間違っているなら、私はなにを目標に生きていったらよいのでしょう」と述べたことが本小論を執筆した動機である。
外的価値と結果主義
1)外的価値
価値とは「よいものとして認め、その実現を期待するもの」であり、価値観とは「いかなるものに、いかなる価値を置くかという個人個人の評価的判断」をいうとすれば、外的価値は他人の評価を通して見える価値である。それに対して内的価値とは他者を介さずに自己にしか見えない価値であると定義する。したがって外的価値は現代日本では高学歴、高身長、高収入(いわゆる三高)、体脂肪の低さ、容貌の美しさ、職業、服装のセンスや食べ物のセンス、ポリシーある装飾品を身につけること、ポリシーを持ってブランドを所持すること、特殊な知識あるいは才能を持つことなどである。「外的な価値を持つことによって初めて自信を持つことが可能である」という事情があるようである。外的な価値は結果によって初めて得られるものである。結果が得られないものは外的価値になり得ない。したがって、結果主義と外的価値とは連動している問題であるということができるだろう。
外的価値が優先する価値観は、他者から見て「すごいな」と嘆声の声をあげられることが重要なのである。したがって、その価値観は一般基準から見て必ずしもポジティブなものに限らない。価値観の反転が起こり、通常では否定的な価値を持つようなものでも、人が容易にまねすることが出来ないこと、人があっというようなことに価値があるという特徴がある。「ネガティブでもポジティブでも、特殊であることが大事なのです」「福岡の少年バスジャック事件は僕にはよく分かります。あれはかつての僕だった。ポジティブに生きられないなら、ネガティブでもよい。自分が他の人と違った、神から恩寵を受けた人間であり、何でも許される万能者であることを示したかったのだと思います」というような価値観である。
2)内的価値
内的な価値観というのは記述することが難しい。辞書的には真・善・美ということになろうが、今日的にはズレを感じるであろう。記述が困難であるのは、それが本質的に客観的に見ることができないものであり、他人と共有することが出来ない性質を持っているからであろう。
いかなるものに、いかなる価値を置くかという個々人の評価的判断は時代とともに変化している。たとえば、忠義、忠誠ということは封建社会にあっては極めて重要な価値であったろうし、儒教的社会にあっては仁、信、礼は内的にも外的にも重要な価値観であったと考えられる。「天に愧(はじ)ない」とか、「仁の実践」はその時代にあっては明確な内的価値観であったにちがいない。戦前であれば、至誠、信義を守る、忠国・報国などは内的価値としては高いものであったかもしれない。執着気質文化の残渣が続いた1970年代までは、几帳面、律義、勤勉、まじめ、気配り、正直、役割意識などの内的な価値観が存在していた。しかし、天皇制が崩壊し、宗教もイデオロギーも支配しておらず、すべてが相対化される現代のこの国では内的価値を維持することは非常に困難なことである。
内的価値が崩壊すれば、価値として残るものは外的価値しか残らない。この現実がさまざまな精神の障害に投影されるのである。
現代、内的な価値観はなにであろうか。あえていえば、「やさしさ」と「自分らしさ」「自分に正直」であろうか。
この「やさしさ」は特殊なやさしさである。現代の若者は決して本質的には優しくはない。それは今どの学校でもあるいじめの問題やホームレス襲撃事件を見ればわかる。彼らは自分の周囲にいる人たちに対して相手の心に立ち入らないという点でやさしいのである。たとえば、家庭の悩みを抱えていると友達に、それと知って話題に触れないということがやさしさの表現なのである。彼らはとても傷つきやすく、相手が傷つくことを思いやることが彼らなりのやさしさなのであろう。
「自分らしさ」の追求も重要な内的な価値である。しかし、自分らしいということはなになのか、実体は曖昧である。彼らはこれをポリシーとか、スタンスとかボク的とか表現するがその実態はファッションやアクセサリ、グッズにおける選択基準であったり、どういう車を選択するかであったり、ライフスタイルの好みであったりする。そのハシリはニューファミリーであろうか。自分の好みにそれらしい個性や一貫性があり、自分の欲望に正直であることが重要なのであり、アイデンティティとしての自我はむしろ真空化し、周辺に拡散している構造が見て取れる。その証拠に彼らに「あなたの等身大の自分というのはどういう自分ですか?それをイメージできますか?」と聞くと決まって絶句してしまう。内的な価値は現代崩壊に瀕していると考えてよいのかもしれない。
「自分に正直」はタテマエで生きることの否定であり、自分の欲望の肯定である。そこには規範やしがらみ、既成観念からの自由、素直な自分の表現を謳っているが、現代の青年が他者からの眼差しからいまだ自由になれていないことが背景にあるだろう。これは「楽な自分でいたい」「飾らない自分」「欲しいことに正直」というような使い方と同義のものである。ホンネで生きることが正当化されたのは1977年頃からである。
3)結果主義
外的価値優位から生じるものは結果主義である。結果主義とは「途中のプロセスは関係なく、得られる結果だけがすべてである」という考えと定義することにする。たとえばプロ野球を例にとれば、選手がスランプになっていい当たりをしても好捕され、ヒットがでないとき、記者に「いい当たりをしてきましたね」と言われても、「ボクら結果がすべてですから」と答えたり、ボテボテの当たりでも久々にヒットが出たときに、解説者が「ヒットはヒットですよ。結果が出れば、調子もよくなるでしょう」と述べたりするようなことは日常にもよくみられることであろう。プロは結果が全てであり、それによって試合に起用され、年俸に反映される世界である。サラリーマンでも、上司に「結果を出してこい」と言われる時代なのである。社会では常に結果が求められ、それが現代日本の経済的豊かさを作ってきた側面があろう。しかし、結果主義には大きな落とし穴がある。総説で取り上げた1990 年代から2000年にかけて起こったいくつかの事件を例に挙げれば十分であろう。
問題はこうした結果主義が子どもの世界にも浸透していることであろう。子どもは学校や親から成績という結果を求められ、スポーツ・運動も同様である。結果を出さないとみんなは納得しない。ある23歳の摂食障害の女性患者は「私は試験で85点をもらって帰ったら、ひどく怒られました。100点じゃないと満足しないのです。95点だと、まだ5点出来てないじゃないのと」。有名校に通っている登校拒否の少年は「成績が下がって、自分でもこれじゃいけないと勉強したんです。けれど、成績は上がらない。そうしたら親に『勉強したと言うけれど、結果が出ていないじゃないか』と言われたんです。それですっかりやる気をなくしてしまいました」と述べている。彼らは、自分の周囲の人間はいつも結果しかみてくれなかったという。
結果主義は出た結果が全てで、結果しか問題にしない。結果を出せば勝ちという世界であるから、たとえば「いくら勉強をしても合格しなければ意味はない」というような考えである。勉強にしても、そこではなんのために勉強をするのかということは問われず、親の圧力と期待、仲間の評価が全てである。結果主義で失われることは「地道な努力」をすることであり、結果が得られなければいっさいの努力が無になるという考え、つまり all or nothing 悉無律的な考えである。実際に彼らは挫折に弱く、いったん思うようにゆかない事態に直面すると、いっさいの努力を放棄し、引き籠もるか、怒りで反応するか、抑うつ状態になるか、あるいは強迫的な架空の完全世界を作るかしかなくなる。
結果主義は個人の価値観ではない。いまや現代の日本を支配する価値観であるということができる。結果主義のルーツはもっと古いものかもしれない。「終わりよければすべてよい」「結果オーライ」は現代に突然生じたものではないはずである。しかし、すべての価値観に優先してこの価値が支配し始めたのは、 1960年代から始まる経済の高度成長時代からであろう。世界に追いつき追い越せという当時の国民を駆り立てたエネルギーには、まだ執着気質的な几帳面や完全主義が色濃くあったが、1970年代に入って生産性の向上と業績が優先する時代に入り、少しずつ年功序列、終身雇用という体制が崩壊するようになってからであろう。1990年代に入ってからは、会社の管理体制は一層強化され、学歴主義はなお残存するとしても、企業はそれ以上に能力主義を優先するようになり、業績の評価を結果で求めるということが多くなった。そうしたことが会社社会だけでなく、どの領域でも優先する価値観にまでなったのは近年のことであるが、そもそも1960年代後半から始まった家庭と学校を巻き込み激化する進学競争が結果主義を育てたのではないか。進学競争は本質的に結果主義であるからである。その頃の子どもたちは、今や現代の子どもたちの親になっているのである。
4)価値の相対化
文化や価値観は本質的に多様である。ある部分は先鋭的に変化し、ある部分は変化しない。どの時代においても価値観の衝突は生まれ、また新しい価値観が生じることを繰り返している。現代の価値観は当然多層的であり、共通の価値観を探すことは困難である。しかし、こうした価値観の対立は個人間で葛藤を呼び、現代のように葛藤を避けることが優先される文化においては必然的に価値の相対化がはかられることになる。現代の青年が争いや論争を避けることは新人類研究が盛んになった1980年代の終わりから90年代にかけて随所で指摘されるようになった。青年はかつての青臭い人生論を語らなくなり、妙に物分かりがよく、反抗しないが、決して組織には従順ではなく、もはやお金や地位は彼らの価値ではなく、自分らしさを発揮できること、自分らしく生きること、自由な時間を使えることに魅力を感じる世代である。こうした価値観の変化は1977年頃を境に顕著になった。
価値観の相対化はこうした背景から理解することが出来る。価値観の相対化は絶対的な価値をもはや信じることが出来なくなったことを意味する。また絶対的価値を主張することや保持することは対人関係の葛藤を先鋭化し、ヤマアラシのジレンマを再現することになる。たとえば、特定の政党を支持するよりは、むしろ政治には無関心でいることや支持政党なしの方が対人葛藤を回避することに有効であるという考えである。その根底には、他者からの批判や攻撃を怖れ、それによって傷つくことを怖れているという心性が伝わる。明確な価値基準を持つものは集団の中で浮いた存在になる危険性が高くなるのである。
これらの変化は「まじめの崩壊」と同時期に起こり、これまで社会や共同体で共有されてきた、正しいとされ、行うべきだと考えられ、あるいは禁止されてきた規範がもはや絶対的な規範や価値観ではなくなり、例えば、「生徒の万引きは誰でもやっている。万引きしたって大金じゃないし、店の人は大して困らないだろ。なんで僕だけを責めるんだ」「援助交際は相手に喜んでもらって、私はお金をもらって欲しいものが買えるし、sexも好きだし、誰にも迷惑をかけていないじゃない。どこが悪いの」「授業中は好きなことをやってもいいだろ。好きな生き方をするのは権利だ」というようなものである。他者にとって価値のあることと、自分にとって価値があることは別なことであることを前提にした価値観であり、それは本質的には重要なことであるが、ここで例示したように、現実に進行している価値観の相対化は自分なりの基準であり、万引きや売春、授業妨害が非倫理的行為であることが相対化され、自由に伴う責任と義務の視点が見事に欠落している。こうした価値観の相対化に呼応して自我拡散を示す症例が臨床の場で増えてきたのである。
問題は彼らが納得するような新しい価値体系をいまだ大人達が示すことが出来ないことであろう。たとえば、「なぜ勉強をしなくてはならないか」「売春はなぜいけないのか」「万引きはなぜしてはいけないのか」というような身近な問題に対しても現代の親や教師は答えることができない。戦後から現代まで生き残った唯一の倫理基準は「人に迷惑をかけない」ということである。価値観の相対化によってそれさえも自分に都合のよい解釈が成り立ち、内的価値観が崩壊してしまったのが現代である。
自己愛性人格構造との関連
抑うつを呈して来院する青年の多くは自己愛性人格障害ないし傾向を持つ人たちである。彼らに共通しているのは、等身大の自分がないということであり、「思い描いている自分」と、思い通りにならなくなった現実に直面して転落した「取り柄のない自分」の二極に解離した自己構造を持っている人たちである。彼らは思い描いている自分が機能しているときには我々の前には来ない。しかし、人生は思春期を過ぎると、思うようにならないことがしだいに多くなるものである。早い人では中学の人間関係や成績、あるいは容貌や体型、遅い人では社会に出てからの職場の人間関係や自分への評価が挫折や傷つきの原因となる。そこでかろうじて維持してきた「思い描いている自分」が破綻して一気に「取り柄のない自分」に転落することになる。健康な人は思い通りにならない事態に直面しても、「もう少し時期をみて」とか「少し準備不足だったかな。もっと基礎からやらなくては」とか、「ちょっと高望みだったかもしれない。少し目標を下げよう」とか、「無理かな。それは断念して別の目標を探そう」「もっと着実に積み重ねてゆこう」というように、いったん引き下がって現実的な解決方法を見いだすであろう。しかし、自己愛性人格構造を持つ現代の青年達はこうした現実的な選択が困難である特性がある。それが可能になるには中心となる自己、すなわち等身大の自己という真の自己が存在することが前提になる。思い描いている自己は誇大的自己であり万能的自己であるから、そのような選択ははじめから不可能なのである。「そうしたことは自分が許さない」といった方が正確であるかもしれない。
思い描いている自分が破綻したときの反応は以前の論文で指摘したように、怒り、引き籠もり、抑うつの3徴である。これに強迫が加わることが多い。引き籠もりは栄光ある撤退であり、取り柄の無くなった自分が抑うつ的自己である。誇大的自己が傷ついたときの反応は怒りである。彼らは思い描いている自己を維持するために、常に周囲の賞賛を要求し、自分が他とは一線を画するような存在であることを維持しなくてはならない。しかしこれはあたかも着陸装置を持たない飛行機のようなものである。羨望の対象となり続けうるための燃料がつきれば、その飛行機は墜落するしかなくなる。 彼らが思い描いている自分であり続けなければならないのは、内部の大きな自己不信があり、脆弱で傷つきやすい自己を抱えているからであるが、そうした自己はどのようにして形成されるのであろうか。
共通して彼らは幼児期に親から欲しいものは何でも与えられたが、いくら努力をしてもポジティブな評価が与えられず、あるいは子どもが無力であることになぶるような打撃を虐待と意識しないまま加え続けてきた生活史を持っている。また無条件の愛を経験していおらず、期待に応えなくては愛されないという恐怖を抱き続けていた人たちである。養育の早期切り上げも特徴的である。すなわち、幼いときに十分に子どもでいられず、自己は常に無力で、無条件に愛されるきょうだいや周囲に人間に対する嫉妬と羨望の感情を持って育った人たちである。彼らは自分の無力感を、成人の言語を使って説明すれば、「自分は人と際だって違う存在だから、愛されないし、愛されなくともよい」と思うことによって自己を守ろうとするのである。ある患者はこのことに対して「自分は子どもの頃に何か引き合わない取引をしたように感じる。多分、甘えることと引き替えに、誇りを手に入れるような」と語っている。誇大的自己は自分の無力性を覆い隠し、誇大的な自己愛的輝きによって現実の自己の不安を防衛する。
これは彼らの両親が愛情に乏しいとか冷淡であるとかいうことを意味しない。むしろ子どもに人よりも強い愛情を持って育てたという自負を持つ人たちである。しかし、その愛の実体は彼らなりの愛し方、自分の都合に合わせた愛し方であり、子どもに対する期待は自身達の欲望の投射に過ぎないという特性があった。自分の子どもが他の子どもと違う、優れた子どもであって欲しいと願う人たちである。彼らの親たちは絶対に「悪かった」とか「ごめんなさい」と言うことができない人たちであり、そういう意味で相手の気持ちを汲むという共感性は極めて乏しい人であるという面もある。両親はきまって結果を求めた。そして結果に応えることが彼らの自己愛の輝きを増す働きをしていた。彼らにとって等身大の自分は受け入れがたい自分である。それは平凡で、並みで、普通であることを意味し、彼らが最も受け入れがたい自己である。 そうした自己はいくつかの共通した特性を持っている。すなわち、彼らは結果主義であること、外的価値観しか信じないこと、all or nothing の傾向を持ち、うまくいっているときには人一倍がんばれるが、いったん思う通りにゆかなくなると一切の努力を放棄してしまう傾向、そのために自分の本当の力を発揮することが困難になる傾向、将来の不安に対してはあてもないのにいつか一発逆転することが起こってうまくゆくという期待を持っているということ(そのために刹那的になること)、したがって地道に努力することが出来ないこと、批判や忠告は傷つきやすい自尊心を痛撃すること、それに対して激しい怒りを感じること、挫折には引き籠もることによって自分の自尊心と栄光を守ろうとすること、自分を愛せないこと、自分を嫌いなことなどである。
そうした彼らが社会で生きてゆくためには、まず誰でも目で見てわかるような価値観(外的価値)を獲得すること、人と違った自分の優位性を獲得することが重要になってくる。オタク、非行、有名校にはいること、一流企業にはいること、容易に手に入らないブランドのモノを持つこと、誰でもが望み、誰もができないスリムな体を作ること、カタカナ業種のようなカッコヨイ仕事を持つこと、ガングロ、タトゥーのような誰もがまねできないような姿をすることなどである。そのために常に結果を出さなくてはならない。時代の先端にいることも他からの優越性を増す道具である。また、自分の内部の傷つきやすい部分に触れて欲しくない彼らは、他人の内部に触れないという形でやさしさを示す。淋しさのために人に近づきたいが、近づくと傷つくので離れなければならない。ヤマアラシのジレンマである。論争をすると傷つくため争いはできるだけ避け、いじめがあっても見て見ぬ振りをする。
外的価値観から内的価値観へ、結果主義からプロセス主義へ
彼らが我々の前に姿を現すときは引き籠もりか抑うつ状態になってからである。すなわち、取り柄のない自分になって初めて治療の対象になるのである。
自己愛性人格構造を持つ人たちに対する治療論はまた機会を改めて述べることにするが、ここでは価値観との関連に限局して述べることにする。治療において真の自分である等身大の自分を見つけ、育てることを目標にするが、彼らは等身大の自分がどんなものか分からないという問題にまず直面する。等身大に自分でなくてはできなくて、思い描いている自分では決してできないものはなにだろうかと問いかけ、それは地道に努力する自分であると教えることから始める。「あなたはこれまで本当に自分の力を発揮できたことはありましたか?うまくいっているときにはあなたは人一倍がんばれるし、人が何を言おうと私はある意味ではあなたはがんばりやだと思います。でも、そのがんばりは事がうまくいっているときだけではないですか」「挫折に弱いこと、うまくゆかなくなると、all or nothing になってしまい、結局は全てを捨て去ってしまっているのではないでしょうか」「自分が輝くために、あなたは誰にでも分かるような価値、人からすごいと言われるようなことだけを求めてきたのでしょう?結果だけを求めようとしてはいないでしょうか」と問いかけ、こういう話をする。「車でFMラジオを聴いていたときに、あるDJがイギリスのバイオリン職人に電話でインタビューしたときの話です。イギリスは楽器制作の伝統がない国ですが、彼は40歳近くになってこの道に入ったそうです。いまではインタビューを受けるくらい有名な制作者になったのですね。最後にDJがその職人に『あなたがこれまで最高と思った楽器を制作したら、あなたはそれをお売りになりますか?それとも自分の手元に置きますか?』と尋ねました。あなたなら、どうしますか?」「そう。でもその職人はこう答えたんですよ。『私にとって作った楽器が人からどう評価されるかは重要ではありません。私にとって大切なのは、制作の過程でさまざまな工夫をしてゆくこと、さらに言えば楽器の制作に関わっていることが重要なのです。ですから、作ったものが人からどう思われるかについては関心がありません』これがプロセス主義なのです。そして、そうして作られた楽器はきっとよい楽器になるでしょう。しかし、人からすばらしいといわれる楽器を作ることを彼は考えていないのですね」「あなたが地道に努力することができれば、結果は得られるでしょう。でも、結果は出ないかもしれない。出なくともプロセスを大切にしてゆけば、あなたは何かを得ることができるし、次につなげることもできるでしょう?そして地道に努力できる自分は、きっとあなたは好きになることができるようになるのではないですか。自分を信じることができるのではないですか?」こうした語りかけに彼らは決して拒まない。
もう遅い、全ては終わったという人に、「君は、もう一周追い抜かれてしまったので走ることをあきらめた選手みたいな心境ですね。しかし、人生はゴールに向かって一斉に走り出すトラック競技ではありません。人は生まれたところから歩き、死ぬところで停止する、道のない広野をさまようものではないですか?その間で悲しみや苦しみ、喜びや楽しみがあるだけでしょう?人生とは壮大なプロセスなのです。死んで栄光を持ってゆけないでしょう?死ぬときには一人です。その間をどう生きるかが重要なのではないでしょうか?」。成績が落ちてから引き籠もってしまった青年には、「16点しかとれなかったら、君はその勉強を続けることができますか?16点は君にとっては0点と同じでしょう?だからそんな点数をとったら、君はもう勉強をしなくなるのではないですか?しかし、16 点しかとれないのが自分の今の現実なら、今度は25点を取るように地道に努力することはできませんか?実は高校に入学したとき、私の数学の点数が16点だったのです。席次は恥ずかしい話ですが、400人中395番。忘れもしません。16点から24点、40点と少しずつ成績を上げて理科系の大学に入ることができるようになりました。何でも地道にやるしかないのです。結果はすぐに出ないものですね」。勉強は意味がないという人に、「勉強はなぜしなくてはならないと君は考えていますか?筋ジストロフィーの少年は20歳までにほとんどが死んでしまいます。しかし、そういう人たちが養護学校で数学や英語の勉強をしています。それはなぜでしょう。大学に入るためや、いい会社に入るためにだったら無意味ですよね。自分と自分以外の外界の関係を理解し、知るために学問は必要なのです。特殊な人をのぞいては、数学や古典、理科などは生きてゆくためだけなら直接必要ないでしょう。私たちはどういう世界に生きていて、自分がどうなり、どうしたいかを知る力が必要です。勉強はそのために必要なのです。20歳しか生きられないなら、それまでの間に分かることは分かりたいというのが人間の気高さではないでしょうか。そして、知るため地道な努力をしてゆくことはきっとその後に人生にも目に見えない力を与えてくれると思うのです。だから、自分のために勉強をしてみませんか」「人がどう自分を見るのかを考えて人生を送ってしまったら、きっとつまらないものになってしまうでしょう。人生は一回です。そしてあなたはこの世にただ一人のユニークな存在なのです。特別である必要がそもそもないのです」
明確化、直面化、解釈という精神療法のなかで、こうした話を語ってゆくが、この種の話を彼らは大人から聞いた経験がないようである。多少説教じみた話を彼らは実に新鮮な驚きを持って受け止める。手応えのある大人が周囲にいなくなったのであろうか?価値観の変化は自己意識の変化と連動し、やがて彼らは等身大の自分を回復してゆく。
摂食障害の患者も同じような問題を抱えている。彼らは過食し、自己誘発嘔吐をし、大量の下剤を用い、リストカットをし、ときには自殺企図をする。抑うつと昂揚、淋しさと惨めさを交互に体験し、拒食、過食を繰り返す。彼らは体重の増加を怖れ、やせていたいのである。過食は拒食のリバウンドであり、またどうでもよい自暴自棄な気持ちになったときに気晴らし食いを繰り返す。
摂食障害の患者は近年男性も増えてきた。これはボーダーレスの時代の反映であるが、摂食障害の患者の本質は人から羨望の視線を持って迎えられる自分でありたいということである。やせることは今や男性も女性も価値が高いことであるという価値観が定着したからであろう。やせた体型は自己節制を貫く克己心、禁欲、高い精神性、美しさなどの隠喩が込められており、深層には幼児期に甘えの断念と交換した自尊心の働きがある。自己不信を防衛するために、彼らは輝かなければならない。輝くことは内的価値観では達成できず、外的価値を獲得し続けなければならない。外的価値の獲得に失敗すれば、彼らは誰でもが望み、簡単そうで、誰もができないダイエットに挑戦することになる。彼らは結果主義者であり、自己嘔吐もその一環である。ある患者に「あなたは何に対しても結果が出ないと意味がないと感じているようです。そして、いつも自分は駄目だと感じているようですね。しかし、結果が重要なのではなくて、そのプロセスの方がずっと重要なのですよ。たとえば、あなたがやっている手芸の趣味で、思った通りにできなくなると放り投げてしまって落ち込むけど、手芸は作る過程が楽しいのではないですか?」と述べたところ、急に激怒し、「そんな価値観は私には受け入れられません!」と席を立ってしまった。しかし、次の面接で、「先生の話があまりにも衝撃的だったので、取り乱してしまいました。たしかに私は今まで結果しか見てこなかったと思います。プロセスの方がずっと重要な中身だなんて考えもしませんでした」と述べたことは印象的であった。「内的価値とは自分にとってだけ意味があって重要なもので、人がどう思われるかは重要なことではないと分かって、もっと健康になろうと考えることにしました」と述べた。
以上のように、内的価値の崩壊と結果主義は病理を産み出し、その修正が治療にも有効であることを指摘した。