The Law フレデリック バスティア著-2

44.民主主義者の指導者
では、この問題に関してルソーがどう言っているのか検証してみよう。
この広報作家は、民主主義者達の至高の権威となっている。
そして、彼が社会構造を人々の意思の上に基礎づけたにもかかわらず、彼は他の誰よりも大いに、人類が立法者の前において完全に無気力な存在だとする理論を、完全に受け入れたのだ。
偉大な王が稀にしかいないのが本当だとすれば、偉大な立法者はもっと稀な存在だとは言えないだろうか?王は立法者が作ったパターンに従うだけだ。そして立法者は、機械を発明するメカニックである。王は単にそれを動かすだけの労働者に過ぎない。
では、人々はこの全体のどの部分を受け持つのか?人々は単に動くように設定された機械だ。
実際、彼らは人間を機械部品としてしか捉えられていないのではないだろうか?
こうして、農業専門技術者と農民との関係と同じような関係が立法者と王の間にも存在する。また、王と、彼の目的との間の関係は、農夫と土地の関係と同じである。
では、この広報作家は、どれほどの高みにおかれてきたのであろうか?ルソーは、立法者そのものを支配する存在であり、傲慢不遜な言葉で、立法者が為すべき仕事を教授するのだ。
「安定性ある国家にしたいのなら、両極端な人間をできるかぎり一緒に扱いなさい。金持ちも乞食もどちらも寛大に扱ってはならない。
土地がやせていて不毛なら、もしくは国土が住人に狭すぎるのなら、産業と芸術に目を向けなさい。そして必要な食物をその産物と交換しなさい。・・肥沃な土地で ―もし、その住人が不足しているのなら- 全ての関心を農業に注ぎなさい。なぜなら、そうすることで住民の数を増やすことができるから。そして芸術を廃止しなさい。なぜなら芸術は民族の人口を減らす貢献しかしないから。
もし、広くて乗り入れの容易な海岸線を持っているのなら、海を商船で満たしなさい。素晴らしいが短い生活を手に入れるであろう。
もし海岸線が、人を寄せ付けないような断崖なら、人々を野蛮にして、魚を食わせなさい。人々はもっと穏やかに、多分より良き生活をするだろうし、また、きっと、より幸福に暮らすことだろう。
一言で言えば、そして、これを万人に共通な格言として加えるのだが、全ての人は、独自の環境を持っている。そして、この事実そのものが、立法者を、その環境に適応させるだろう。
ヘブライ人が以前、またもっと最近ではアラブ人が、客観的原理として宗教をもっていたのはこれが理由である。
アテネ人の目的は、文学であった。カルタゴやタイアにおいては、それは商業であった。ロードス島においては海軍であった。スパルタにおいては戦争であり、ローマにおいては美徳であった。
“法の精神”の著者モンテスキューは、立法者がどの方法で、各々の目的に向けて体制を導くべきかを述べている。しかし、立法者が自分の本来の目的を間違ったとしてみよう。そ
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して、物事の本性によって導かれるものと違った原理に基づいて活動したとしてみよう。
その選択された原理が、時として奴隷を生み出し、時には自由を、時には富をもたらし、そして時には人口を増やし、時に平和をもたらし、また時には征服をもたらすとしてみよう。
この目的の混乱は、ゆっくりと法律を弱め、帝国を弱体化させる。
そのような国は終わりなく続く動揺にあいやすく、国が破壊されるか体制が変わるまで続くだろう。そして、無敵の本性がその帝国を取り戻すのだ。」
しかし、仮にその本性が充分に無敵で、その帝国を取り戻したとしても、最初に帝国を手に入れた者には、立法者など必要ない事実をどうしてルソーは認めないのだろう?
彼は何故このことを見ようとしないのか?人間の本性に従えば、リクルガスやソロンやルソーのような容易に間違える人間の干渉をうけることなく、肥沃な土地での農業に戻り、広く通商を乗り入れ容易な海岸で行うようになるだろうことを。
45.社会主義者は強制された従順さを求める
いずれにしても、ルソーが創造者、計画家、指導者、立法者、管理者にひどい責任をかぶせようとしているのが分かる。結果的にルソーは次のようなことを強要する。
国家を創造しようとする人間は、自分が人間の本性を改造できると思うはずだ。いわば、それ自体で唯一にして全体である各個人を、もっと大きな全体のほんの一部に過ぎないものへと改造するのだ。その大きな全体から個人はその人生と存在を全て、もしくは一部を受け取ることになるだろう。国家の創造者は、自分に人間の構造を変える能力があると信じ、人間を強化し、自然から受けた物理的で独立した人間を、部分的で道徳的な存在へと置きかえられると信じるべきなのだ。
つまり、国家を創造しようとする者は、人間本来の力を除去して、全く異質な何か他のものを与えることができなければならない。
人間とはなんとあわれなことか!もしルソーの信奉者がその役割を与えられたら、人間の尊厳はどうなってしまうことだろうか?
46.立法者は人類を鋳型に嵌めようとする
今度は、レイノーが、立法者により鋳造された人間に関するテーマについて語ったものを見てみよう。
「立法者はまず始めに、風土、気象条件、土壌を考えなければならない。立法者の義務は、その自由になる資源によって決定されます。彼は最初にその地域を考慮しなければならない。海岸沿いの民族は、航海術と合わせて作られた法律を持つだろう…。仮にその居留地が内陸にあるならば、立法者は自然環境と、土の肥沃度合いの両方に合わせて計画を作らなければならない…。
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とりわけ、財産の分配の仕方で、立法者の知恵がわかる。
一般的に、世界の全ての国で、新しい入植地が設立される時には、家族を養うに十分な土地が各人に与えられなければならない。
未開の島に子供と共に移り住むなら、理性の発達に伴って真実の種子が発芽するのを待つだけでよい。
しかし、旧い歴史をもつ民族を新しい国に再入植させるのであれば、治療や修正が可能かもしれない古い有害な意見や習慣を、いっそ全て捨てさせる政策をとることが、立法者の手腕にかかっている。
旧い意見や習慣を引き摺るのを避けたいならば、公立学校で子供を教育することによって第2世代を保護しなければならない。
国王や立法者は、必ず最初に若者を教育するための学識者を用意してから、入植地を作らなければならない。
新しい植民地では、人々の風習や習慣を改良しようとする抜かりない立法者にあらゆる機会が開かれている。
彼に美徳と才能があるならば、自分の思い通りになる領土と人民は、その心に社会計画の創作意欲を掻き立てることだろう。
一人の作家にできるのは、漠然とその計画を前もってなぞることだけだ。
なぜなら、それは必然的に、あらゆる仮説にある不安定要因の影響をうけるからだ。
そこには、いろんな形態の、絡み合った問題、状況があり、これを詳細に予見し、解決することは困難だからだ。」
47.立法者はいかに人間を管理するかを語った
レイノーの話は、まるで農業の教授が彼の生徒に講義しているのを聞いているようではないだろうか?
「気候は農夫の最初のルールであり、天然資源がなにをすべきかを決定する。
最初に自分の置かれた環境を考慮しなければならない。
粘土質の土の上にあるならば、これこれの方法で行動しなければならない。
それが砂地ならば、別の方法でそれを処理しなければならない。
全ての設備は、土質の改善を望む農夫に利用できる。
仮に十分な技量を持っているとしたら、彼が自由に使える肥料を見れば、すぐに、どう使えばよいかが分かるだろう。
大学教授にできることは、漠然とその計画を前もってなぞるだけだ。
そこには、いろんな形態の、絡み合った問題、状況があり、これを詳細に予見し、解決することは困難だからだ。」
レイノーとは、なんと素晴らしい作家なことか!
このような土、粘土、肥料といった彼の自由になるものが、実は人間を指しているということを覚えておこう。
それは、あなたと同じ、知性ある、自由な人間なのだ!
彼らも神から同様に、自分で観察し、計画し、考え、判断する能力を与えられているのだ!
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48.一時的な独裁政権
次は、メーブリーの法と立法者の問題に関する意見である。
ここに引用した文章に先立つ部分で、メーブリーは安全性を無視したがために、法が疲弊していると書いている。
彼はさらに次のように読者に訴えかける。
「このような条件において、政府のスプリングが緩んでいることは明白だ。これに新たにテンションを与えて、悪い部分を直さなければならない。欠点を直そうとするより、必要なものを与えることを考えた方がいい。この方法で、共和国に若さを取り戻すことができる。なぜなら、自由な人々は、その手続きに対してずっと無知であったからだ。彼らは、自分の自由を失ってしまった!
しかし、通常の政府手続きでは修復出来ないほどに、邪悪が進んでいるなら、ほんの短期間、絶大な権力を特別裁判所に与え、その権力に訴えるべきだ。市民の想像力を目覚めさせる必要がある。」
このような調子で、メーブリーは20巻もの本を書いている。
このような古典教育に由来する教育の影響によって、万人が自分流儀に社会を、お膳立てし、組織し、管理しようとして、自分を人類より高位の立場に置こうとするのだ。
49.社会主義者は富の平等を求めている
次にコンディヤックの立法と人類の主題に関する話を見てみよう。
「主よ、リュクルゴスか、ソロンを想定してください。
さらにこのエッセイを読み終える前に、法をアメリカなりアフリカにある野蛮な種族に与えることによって、お楽しみください。
遊牧民を固定された住居に住み着かせてください。
群れを世話することを彼らに教えてください。
自然がそれらに植えつけた社会意識を発展させることを努め…
彼らに、人間性に伴う義務の実践をはじめるように命じ・・。
官能的な放縦の喜びに対し、処罰を下してください。
すると、立法の全ての点が、野蛮人に、悪徳をなくし、美徳を与えることが分かるでしょう。
全ての人々は法律を持っていました。
しかし、ほとんどの人は幸福でありませんでした。
この理由は何でしょうか?
それは、立法者が、社会の目的が、共通利益によって家族を団結させることだということに、ほとんどの場合、無知であったからです。
法律における公平はつぎの2つからなっています。
市民の間における、富の平等の実現、尊厳の平等の実現です。
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法律がより大きな平等を実現するにつれ、全ての市民にとってそれはますます大切なものとなる。・・
全ての人間が富と尊厳が平等になったとき、そして、法がこの平等を妨げる希望を残さないとき、強欲、野心、肉欲、怠惰、怠惰、妬み、憎悪、嫉妬によって、どうして人が扇動されたりするでしょうか?
スパルタ共和国から学んだことは、この問題について何かをひらめかせるかもしれない。
スパルタ以外に、平等という自然の秩序に調和した法をもった国はいまだかつてなかった。」
50.社会主義作家の間違い
実際のところ、17世紀と18世紀の間において、人類という存在が、偉大な王や、偉大な立法者、偉大な天才から全てを与えられた、つまり形、顔、エネルギー、動作、人生等を素直に受け入れる不活性の存在だと考えられたことは不思議ではない。
この世紀は古代研究を養分として育った時代である。 そして、古代はいたるところで(エジプト、ペルシア、ギリシャ、ローマで、)一握りの人間が、自分のきまぐれや、権力や不正手段によって、人々を思うように型に嵌めて作り上げる光景を我々に見せつけている。
しかしだからといって、これは、このような状況が望ましいことを証明するわけではない。
むしろ、人と社会の進歩が可能だからこそ、間違い、無知、専制、奴隷制度、および迷信が、人間の歴史の起源において最も大規模にあったと考えるのが自然であることを証明しているだけなのだ。
この作家達が古代社会をこのようなものとして把握していたのは考え違えではない。だが、古代の社会を、未来の世代への賞賛すべきモデルとして、模倣すべきモデルとして提供しようとしたから違えたのだ。
批判的に考えるところがない、子供っぽく法に従順な彼らは、古代世界における人工的な社会の偉大さ、威厳、道徳、および人々の幸福を当然と見做した。
彼らは、知識が時間の経過とともに出現し、どんどん増えていくことを理解していなかった。 そして、知識の成長に比例して、大いなる力が権利の味方をし、社会は自然に所有権を取り戻すのだ。
51.自由とは何か?
実際、私達が目撃している政治闘争とは何であるか? それは自由の獲得へ向けた、万人の本能的な闘争だ。 そして、自由とは何か?まさしくその名前が心臓の鼓動を早め、そして、世界を揺るがす、この自由とは何か?
それは、全ての自由、つまり良心の、教育の、組合の、出版の、旅行の、労働の、貿易の自由を寄せ集めたものではないのか?
要するに、自由とは、彼が他人を傷つけない限り完全に彼の能力を生かす、万人の自由ではないか?
自由は全ての専制-もちろん法律の専制を含む-を破壊することだ。
結局、自由とは、合法的な自衛のための個人の権利を組織し、不正を罰するといった道理に適
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う範囲に法を制限することなのではないか?
自由へ向かう人類の本性が、特にフランスで大きく妨げられていることは認められなければならない。 これは、大いに、フランスの広報作家達が共通に持っている致命的な願望(古代の教えから学んだもの)に起因している。
広報作家達は、自分達の幻想によって人類をアレンジし、組織し、管理するために、自分たちを人類より上位の存在に置こうとしているのだ。
52.博愛的な専制
社会が自由に向かって闘争している間、自分達を人類の頂点に立つ存在とみなしている、このような有名人たちは、17世紀―18世紀の時代精神に満ち溢れていた。
彼らは、人類を彼らの社会的発明である博愛的な専制の支配の下におくことだけを考えていた。
ルソーと同様に彼らは、人類が従順に、彼らの空想の産物である公共福祉のくびきに耐えることを強制しようとした。
このことは、1789年の出来事に特に言えることだ。
旧体制が破壊されるやいなや、社会は、新たなる別の人工的な約束事の支配下に置かれ、いつものように法の万能性という同じ地点から始められることになった。
この時点における、何人かの作家と政治家たちの話を聞いてみよう。
サン・ジュスト:立法者は未来に対し命令を下す。人類の善とは彼の意志のことだ。人類を彼が望むものにするのだ。
ロベスピエール:政府の役割は、物理的、倫理的な国家の力を、国家が生まれたところの目的へ向けて導くことだ。
ビローヴァレン:自由がもどる予定の人々を改めて結束しなければなりません。 強い力と積極的な行動が、古い先入観を破壊し、古い風習を変え、堕落した愛情を正し、必要以上の欲求を制限し、刷り込まれている悪を破壊するために必要です…。
市民の皆さん。リュクルゴスの確固たる厳格さが、スパルタ式共和国の磐石の基礎を作りました。 ソロンの弱々しい依存的な性格は、アテネを奴隷制度に陥らせました。
同じことが、政治学全体に当てはまります。
ルペレティエール:人間の堕落した程度を考えると、社会全体の再生と、いわば新しい民族の創造が必要と確信します。
53.社会主義者は独裁政権を望んでいる
再び、人々は原料素材でしかないと主張される。人々が自分を進歩しようと望むのは人々のためにならない。 人々に、自分を高めることは不可能だと言うのだ。
サン・ジュストによると、それは立法者だけに可能だ。
人は、単に、立法者の意思が、そうあるべきだと考えたものになる。
文字どおりルソーのコピーだったロベスピエールによると、国家が生まれる目的を宣言すると
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から、立法者は始める。
ひとたび、目的が決定されれば、政府は、その目的にむけて、国家の物質的、道徳的な権力を導きいれさえすればよい。
その間、国民は、完全に受動的であり続けることになっている。 そして、ビローヴァレンヌの教えによると、人々は立法者によって認可された以外のいかなる先入観、愛情、欲望も持つべきではないことになる。彼は、一人一人の確固たる厳格さが共和国の基礎だとまで言う。
彼が邪悪と言っているものがとても大きく、普通の政治手続では取り除くことが出来ない場合には、マブリーは独裁者に徳を促進するように勧める。 彼は、「大きな権力が短期間だけ与えられた特別裁判所に訴えよ。」と言う。 「市民の想像力は、激しい強打でもって打ちのめされる必要があります。」
この主義は忘れられていない。 ロベスピエールの言葉を聞いてみよう。
「共和党の政府の原則は美徳であり、美徳を確立するのに必要な手段は恐怖だ。
私達の国では、概念を次のように置きかえたい。自分本位のかわりに道徳を、名誉のかわりに正直を、慣習の代わりに原則を、方法のかわりに義務を、流行の暴政のかわりに理性の帝国を、貧乏の軽蔑のかわりに悪徳への軽蔑に、横柄さに対しプライドを、虚飾に対し魂の偉大さを、お金への愛のかわりに栄光への愛を、良き仲間の代わりによき人々を、陰謀の代わりにメリットを、機知の代わりに天才を、華麗さに対して真実を、快楽の退屈さのかわりに幸福の魅力を、偉大なものの矮小さの代わりに人間の偉大さを、気は良いが軽薄で堕落した人々の代わりに寛大で芯の強い幸福な人々でもって置きかえたいと思う。
要するに、私達は、共和国にある全ての長所と奇跡でもって、君主国の全ての悪と不合理に置きかえたいのだ。」
54.独裁者の傲慢
ロベスピエールが自分以外の人類の上よりも、なんという遥か高みに自分を置いていることか! そして、彼が話す尊大さに注目して欲しい。
彼は、人心の偉大なる新たな目覚めを祈ることには満足してない。 また、彼は統制政府にそのような結果を期待していない。 いや、彼は自分の手で人類を改造しようとしているのだ。恐怖をその手段として。
この腐り切った矛盾だらけの言葉の全ては、革命政府を導くべき道徳原則を説明することを意図したロベスピエールの話から抜き出したものだ。
ロベスピエールの独裁制への要求は、その目的が単に外国の侵略を阻止し、反対グループを支配下に置くことではないことに注意して欲しい。
むしろ、自分自身の道徳原則を国に押し付けるために、恐怖をその手段とすることを可能にしようとして独裁制を望んでいるのだ。
彼は、この行為は、新しい憲法に先行する一時的な手段にすぎないと言う。
しかし、現実には、フランスから、身勝手さ、名誉、関税、マナー、ファッション、虚栄、金銭欲、親密な交友関係、権謀術策、ウィット、審美感覚、および貧困を抹殺するために、他ならぬ恐怖を用いることしか望んでいない。
ロベスピエールがこの奇跡を遂行するまで、― 奇跡と正しくも彼が呼んだように― 法が再び君臨することを決して許さないのだ。
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55.独裁制への間接的アプローチ
しかし、通常、これらの紳士たち、つまり改革者、立法者、および広報作家は、人類に直接的に専制を課そうとしているわけではない。
そんなわけがない。彼らはそのような直接行動をとるには穏健的すぎるし、また博愛的すぎる。
その代わり、この専制、この専制主義、全能の政府を実現するために、法を利用することを考える。 彼らの願望は法を作ることだけだ。
フランスにおいて、このいかがわしい考えが広まっている事実を示すのに、私は、マブリー、レーナル、ルソー、およびフェヌロンの作品の全部と、それに加えてボシュエとモンテスキューからの長い抜粋だけでなく、その革命議会の全議事録も引用する必要があるだろう。 だが私はそんな事をするつもりは全くない。 私は単に読者に、それら文献を参照するようにと示唆するだけだ。
56.ナポレオンは受動的な人類を欲した
ナポレオンにとっても、同様の考えが大いに魅力的であったのは、別に驚くべきことではもちろんない。 ナポレオンはその考えを熱烈に抱擁し、精力的に用いた。ナポレオンは全ヨーロッパを、化学者のように自分の実験材料と考えた。 しかし、当然の結果、これら材料は彼に叛旗を翻した。
セントヘレナで、大いに夢破れたナポレオンは、人類の中になにがしかの自発性を認識したようだった。 これを認識したことで、彼は自由に対して、以前ほどには敵対しなくなった。
にもかかわらず、そのことで、息子への次のような教えを残すことを妨げることはなかった。
「統治することは、道徳、教育、および幸福を、増やし、広めることだ。」
これだけ例を挙げれば充分だろう。モレリー、バブーフ、オーウェン、サン・シモン、およびフーリエなどからさらにこれ以上、同じような意見を引用する必要は殆どないといえる。
しかし、ここに、ルイスブランが労働組合について書いた本から、さらに少しばかりの抜粋をすると、「我々の計画において、社会は権力からその社会を前進させる力を受け取る。」とある。
では、これを検討してみよう。 この社会を前進させる力の背後にある力とは、ルイスブラン氏の計画によって供給されることを。 彼の計画は、社会に押しつけられることになっている。 ここで言うところの社会とは人類のことだ。 従って、人類は、ルイスブランから社会を前進させる力を受け取るのだ。
この計画を受け入れるも、拒絶するも人々の自由だと言われるだろう。人々が何を受け入れようと、また誰のアドバイスであっても拒絶しようと、それは疑いなく自由ではある。
しかし、ルイスブラン氏は問題をそのように考えているわけではない。 彼は、自分の計画が法となり、そして法の力によって人々に強制的に課すことを期待しているのだ。
ルイスブラン氏の計画では、国家は労働法を通過させるだけでよい。 (→他に何かあるか?)
労働法によって、完全な自由な状態で産業発展するはずだ。国家は単に社会を、傾斜面の上に置くだけだ。(→それだけか?) – 31 –
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そして、社会は物体に働く単なる力により、また彼が確立したメカニズムの自然な作用によって、この傾斜面を滑り下りることになる。
しかし、ルイスブラン氏のいう、この傾斜面とは何なのか? これは奈落の底に導くものではないのか? (→いいえ、幸福をもたらします。)
もし、これが真実ならば、なぜ、社会は自らの選択でそこに行かないのか? (→社会は何を望んでいるかを知らないので、誰かが前進させなければなりません。)
社会を前進させるものは何ということになっているのか? (→権力だ) そして、誰が、推進力をこの権力に供給することになっているのだろうか? (→もちろんマシンの発明者.この例ではルイスブラン氏が。)
57.社会主義の邪悪な円環
私達は決してこの円環から脱出出来ないだろう。 受動的な人類という概念と、人々を前進させるために偉大な人によって使われる法の権力といった概念の円環から。
一度、この傾斜の上に置かれると、社会はいくらかの自由を享受できるだろうか?(→その通り)
では、ルイスブラン氏、自由とは何なのか?
繰り返すのはこれを最後にするが、自由とは単なる与えられた権利であるばかりでなく、自由とはまた、正義の支配の下で、そして法の保護の下で、彼の能力を用い、また発展させること人を認める権力でもあるのだ。
そして、これは無意味な区別ではない。 その意味は深く、またその結果は、評価しづらい。
一度、人が本当に自由だと認められ、彼は自分の能力を使い、伸ばす力を持たなければならないとなれば、万人に自身の開発を可能にする教育を、社会に対して請求する権利があることになる。
また、万人に生産性を充分に高めるために不可欠な生産手段を社会に請求する権利があることになる。
では、万人に必要な教育と必要な生産手段を、どうやって社会があたえることができるだろうか?それが国家の活動によってではないとしたら。
自由は権力だと再び定義してみよう。 この権力は何から成っているだろうか? (→教育を受ける権力、そして生産手段を与えられる権力。)
誰が、教育と生産手段を与えることになるだろうか? (→社会が与える。社会はこれらを万人に提供する義務がある。)
どんな行為によって、社会は生産手段を持っていない人々に与えることになるだろうか? (→もちろん国家によって。)
そして、国家はそれらを誰から取りあげることになるだろうか?
指導者に、その質問に答えさせよう。 また、私達を導こうとしている方向が何であるかを彼に気づかせよう。
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58.民主主義者の教義
私達の時代の奇妙な現象(たぶん子孫が仰天するだろう)は、次の三段階の仮説に基づいた教義だ。 完全に不活性の人類、全能の法、および、立法者の無謬なる完全性という3つの仮定だ。 これらの3つの概念は、完全に民主的だと自称する人々の神聖なシンボルとなっている。
この教義の支持者はまた、自分が社会的だとも公言している。 彼らが民主的である限りは無限の信頼を人類に置く。だが、彼らが社会的である限りは人類を泥より少しましな程度のものと見做す。 詳しくこの違いを検討してみよう。
政治的な権利が問題になっている時の、民主主義者の態度はどうだろうか? 立法者は、選挙の時には、人々をどのようなものとして見做しているだろうか? その時だけは、彼らは人々には生得の知恵が備わっていると言う。 人々には最高の知覚能力が生まれつきあるとされ、 人々の意志は常に正しいとされる。 一般意志は間違えるはずがない。 普通選挙権が”普通”になりすぎることはない。とされる。
投票時期になると、有権者がその英知の証明を要求されることは明白にない。彼の意志と、その賢明なる選別能力は当然と見做される。 人々が誤ることが有り得るだろうか? 私達は啓蒙の時代にいるのではないか? なんだって!人々はいつも鎖につながれているって? 多大な努力と犠牲によって、権利を勝ち取ったのではなかったか? 知恵と英知を持つことを十分に証拠を示してきたのではなかったか? 大人ではなかったか? 自分で判断できなかったか?
自分自身にとって何が最も良いかを知らなかったのか?
自分を人々の上に置き、さらに人々に代わって判断し行動するような傲慢な階級や人がいるだろうか?
いや、そんなことはない。人々は自由だし、また自由であるべきだし、人々は、自分の仕事を自ら管理したいと思い、またそうすることだろう。
しかし、最終的に立法者が選ばれた時――その時、議員達の演説の調子は、なんと急激に変わることか。 人々は受動的で、不活発で、無意識な存在と再びみなされるのだ。
そして、立法者は全能の権力の一部となる。 こうなれば、人々を先導し、指導し、推進し、団結させることは立法者の役割だ。 人類は服従しさえすればよい。 専制の時間が始まった。
我々は、こうして、この破滅的な考えを観察してきた。
選挙の間は、あれほど賢明で、道徳的で、また完全だった人々が、今ではそのような性質は何もないと見做される。 もしいくらかでも性質なるものがあるとするならば、それは堕落に導かれやすい資質とされるのだ。
59.社会主義者の自由の概念
しかし、人々にはいくらかでも自由が与えられるべきではないのか?
だが、コンシデラン氏は、自由は必然的に独占を引き起こすと保証した!
私達は、自由とは競争を意味すると考えている。 しかし、ルイスブラン氏によると、競争は、
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実業家を滅ぼし、人々を皆殺しにする体制だということになる。
自由な人々がその自由度に比例して破滅し皆殺しにされるのはこの理由のためだ。 (ルイスブラン氏は競争の結果がどういうものかを、なんとかしてきちんと調べてみるべきだ。例えばスイス、オランダ、イギリス、米国での結果を。)
また、ルイスブラン氏は競争が独占を引き起こしていると言う。 そして、同じ推論から彼は、低価格によって高価格がもたらされていると非難している。競争は生産を破壊的活動に追いやり、購買の原動力を失わせる。同時に、このことが消費減退を余儀なくさせ、一方で生産の増加を強制する。
この結果、自由な人々は、消費をしないための生産をすることになる。つまり自由は人々の間の抑圧と狂気を意味することになる。
だからこそ、ルイスブラン氏は競争にかくも注意を向けなければならないことになるのだ。
60.社会主義者はあらゆる自由を恐れている
さて、立法者は、人々がどんな自由を持つことを許すべきだろうか?
良心の自由なのか? (しかし、これが許されたならば、人々が、無神論者になるのに、この機会が利用されるだろう。)
では、教育の自由か? (しかし、両親は、教授に、金を払って不道徳と嘘を彼らの子供に教えさせるだろう。さらに、ティエール氏によると、教育が全国的な自由に任せられたならば、全国的ではなくなるだろうし、トルコ人やヒンズー教徒の考えを私達の子供に教えているだろう。法の教育への専制のおかげで、こうしてローマ人の高潔な考えを教えられる子供達は幸運に恵まれている。)
では、労働の自由か? (しかし、それは、競争を意味するため、次々、生産を消費されていない状態に放置し、実業家を滅ぼし、人々を皆殺しにするだろう。)
たぶん貿易の自由のことか? (しかし、誰でも知っているように、さらに保護関税の支持者が何度も繰り返し証明したように、貿易の自由が、あらゆる関係者を滅ぼすので、繁栄の為には貿易の自由を抑制することが必要だ。)
では、ことによると結社の自由なのか? (しかし、社会主義の教義によると、真実の自由と、任意団体は相反する関係にある。また社会主義者の目的とは、真実の自由において、協調を強制するために、結社の自由をしっかり抑制することだ。)
あきらかに、人類が堕落と災害に陥りやすい存在と信じるがために、社会民主主義者達はその良心から、人々が一切の自由を持つことを認めないのだ。
従って、当然ながら、立法者は、民衆を救うための計画を作らなければならない。
以上のように私は推論をしてきたが、ついに挑戦的な問題に行き着いた。もし、人々が、無能で、不道徳で、政治家達が言うほどに無知ならば、なぜ、このように無能な人々への投票権が、熱烈に主張され弁護されなければならないのか?
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61.超人概念
このように計画家が主張することで、人間性に関する別の問題が持ちあがる。この問題を、私はしばしば彼らに聞くことがあるが、知るかぎり一度も、その問いへの回答をもらったことがない。
もし人類の自然な性分がそれほど悪いのなら、人々を自由にすることは安全ではない。
また、このような計画家達が常に善良な人間なのは何故か? 立法者も彼らの指定代理人も、同様に人類に属しているのではないのか? あるいは、彼らは、他の人間よりも良質の粘土で作られているとでも信じているのだろうか?
計画家は、人々の本能が非常に邪悪なために社会が指示なく放置されていると、破滅にむかって必然的にまっさかさまに転落するのだと主張する。
立法者は、この自己破滅的なコースを阻止し、人々に正気の方向を与えるのだと主張する。
そして、立法者と計画家が、その他人類にはるかに優越する知性と美徳を天から授かったことは明らかだ。 もしそうなら、彼らが人類に優越するという資格を我々に見せろと要求しよう。
彼らは、我々という羊を支配する羊飼いだということだが、 もちろん、このような決め事は、彼らが私達より生まれながらに優れていることを前提としている。
また、たしかに、私達が、彼らのその生まれながらの優越性の根拠をみせるよう要求するのは極めて正当なことである。
62.社会主義者は自由な選択を拒否する
私が、次のことに疑いを差し挟んでいるのではないことを分かって欲しい。彼ら社会主義者が自分自身のお金とリスクのもとに、社会ルールを考え、宣伝し、主張し、自分に対して実験を試みる権利を持つのは当然である。
しかし、私は、次の権利に疑いを挟んでいる。つまり、彼らが、法によって(つまり権力によって)私達に、その計画を押し付ける権利、さらに税金でその費用を賄うことを強制する権利を問題にしているのだ。
これらの様々な社会学派、-プルードン主義者、カベー主義者、フーリエ主義者、普遍主義者、また保護貿易支持者が、その様々な考えを放棄することを強く主張しているのではない。
彼らが共通に持つ、ある1つの考えを放棄することを、強く主張するだけだ。
彼らの組織や階級への服従や、その社会化計画、無利子融資銀行、グレコ・ローマン的道徳概念や、商業ルールといった、彼らの考えを、私達に黙って認めろと強制するのをやめるべきだ。
私の要求は、私達が自分で計画を決めることが許されることだけだ。 その計画が自分にとって最優先の利益に反していたり、自分の良心に照らして不愉快と感じるとしたら、直接的であれ間接的であれ、その計画の容認を強制されないことを要求する。
しかし、こういった計画家は、計画を実行するために、税金の財源と、法権力を利用する権利
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を要求する。 抑圧的かつ不公平なだけでなく、この欲望は、計画家が無謬で、人類は無能力だとする破滅的な仮定を含意している。
しかし、再び言うが、人々が自身で判断することが出来ないのなら、皆がなぜ普通選挙権について話すのか?
63.フランス革命の原因
この考えの中の矛盾は、フランスでの事件の中に不幸な形だが、必然的に反映されている。
例えば、フランス人は、権利を得ることにおいて、他の全てのヨーロッパ人を先導してきた。あるいは、より正確には、政治的な要求を獲得することにおいて先んじてきた。
そうであっても、この事実は、フランス人が最も管理下におかれている事実をいかなる点でも変えないし、我々が最も管理され、最も強制され、最も抑圧された、ヨーロッパで最も搾取されている人々だという事実を曲げはしない。
また、フランスは、他の全ての国家を、革命の発生が常に期待されている国々として導いている。
そして、これは、政治家が、ルイスブラン氏がうまく表現した次のような考えを受け入れ続ける限り、そうあり続けるだろう。「社会は権力から、その推進力を受け取る。」と。
感情を持つ人間が、受動的な限り、そうあり続けるだろう。
彼らが、自らの知性とエネルギーによっては、繁栄と幸福をもたらすことが出来ない存在と考える限り。法にすべてを期待している限り。
要するに、国家と人々の関係が、羊飼いと羊のそれの関係と同じだと想像する限りにおいて。
64.政府の巨大な力
こういった考えが信じられている限り、政府の責任が巨大なことは明白だ。 幸運と悪運、富と極貧、平等と不平等、美徳と悪徳-これらあらゆる結果は政府の統治に依存することになる。
政府はあらゆる役割を負わされ、政府はその全てを引き受け、全てを行うことになる。
従って、政府にはあらゆる責任があるのだ。
私達が幸運であれば、政府は、その感謝をうける権利がある。しかし、私達がもし不運ならば、政府は非難に耐えなければならない。 なぜなら人と財産は政府の思うが侭なのだから。 法は全能なのだから。
教育を独占することで、政府は、自由を奪われた家父長達の希望に答えなければならない。 そして、彼らの希望が粉砕されるならば、これは誰の過ちなのか? 政府は産業を管理し、繁栄させることを契約した。 さもなければ、産業からその自由を奪うことはばかげている。そして、産業が現在損害に喘いでいるなら、それは誰の過ちなのか?
関税をもてあそび、貿易収支をいじくり回して、政府は、貿易を繁栄させることを約束する。 そして、これが繁栄の代わりに破壊が結果として生じているなら、それは誰の過ちなのか?
海運業にその自由と引き換えに保護を与えることで、政府は、彼らに高収益を保証する。 そして、そのことが納税者に重荷になるならば、それは誰の過ちなのか?
従って、政府が自発的に自分で責任をとらない国家において、不平はなにひとつない。これは
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驚くべきことだ。 そして、これら全ての失敗が、フランスに、別の革命の脅威を増大させるとしても驚くべきことだろうか?
そして、どんな救済策が代案として出てくるだろうか?
その代案とは、無制限に法の範囲を拡張するものだろう。つまり政府の責任を拡張するように提案がされるのだ。
しかし、政府が、賃金をコントロールし、賃上げを約束するが、それが実現出来ないならどうなるのだろう。 政府が、全ての貧乏な人を世話することを請合うが、それが出来ないとしたら。 政府が、失業した労働者を全員支援することを約束するが、それが不可能なら。
政府が、無利息でお金を誰にでも貸すことを請け合い、それをすることが出来ないなら。
ラマルティン氏のペンで書かれたこれらの言葉-「国家の目的は、人々を啓発すること、発展すること、拡大すること、強くすること、信仰深くすること、さらに人々の魂を神聖化することだ」- と言わなければならないとすれば。
そしてもし、政府がこれらすべてをすることが出来ないならば、どうなるのだろうか?
こうした結果、政府の全ての約束が失敗した後に、ほぼ確実に、革命が不可避的に起こるのではないだろうか?
65.政治学と経済学
[今、この主題の冒頭ページの中で簡単に議論された主題に戻ることにしましょう: 経済学と政治の関係-つまり政治経済学へ.]
政治の科学が論理的に公式化されるには、その前に経済学の科学が発展しなければならない。 本質的に、経済学は、人間の利益が調和しているか、相反しているかを決定する科学である。このことが、政治科学が政府の本来の役割を決定できるほどに系統立てられる前に理解されていなければない。
経済学の発展のすぐ後に続き、政治科学を体系化する。また政治科学のとくに最初の段階において、次の非常に重要な問いに答える必要がある。
法とは何か? 法は何であるべきか? その範囲は? その限界は? そして論理的に、立法者の本来の役割はどこまであるのか?
私は、この問いに答えることをためらわない。
法とは、不正を防ぐために組織された集団的権力のことだ。
つまり、法とは正義なのだ。
66.立法の本来の機能
立法者が人と財産を支配する絶対権力を持っていることは真実でない。 人と財産の存在は立法者の存在に先行し、立法者の役割は、その安全を保証することだけだ。
法の役割が、私達の良心、考え、志、教育、意見、仕事、貿易、才能、楽しみを管理することだというのは真実でない。 法の役割は、これら権利の自由な行使を保護し、また誰からも妨害されないようにすることだ。
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権力による支えが必然的に法に必要となるなら、その合法的な適用範囲は、権力行使が必要な範囲にだけあることになる。 これは正義の領域だ。
合法的自衛のために武力を使う権利は全ての個人にある。 集団的な力(単なる個々の力をよせ集めた連合)が、合法的に同じ目的のために使われるべきであるのはこの理由による。
そして、それは、他のいかなる目的にも合法的に使用することは出来ない。
法とは、単に法が形成される前に存在していた個々人の自衛権を組織化したものである。
法とは正義のことだ。
67.法と慈善とは同じでない
たとえ法が博愛的精神で動いていたとしても、法の使命は、人を圧迫することでも、人々の財産を略奪することでもない。その任務は、人と財産を保護することだ。
さらに、その執行の過程において、仮に法が、人々を抑圧することも、人々の財産を略奪することがなかったとしても、法が博愛的で問題がないと言うべきでは無い。
これは矛盾なのだ。 法が、人と財産に影響を及ぼすのは避けられない。 そして、人や財産を保護する目的以外に、法の力がいかなる方法であっても行使されるならば、それは、その時必ず、人々の自由と、財産権を侵害する。
法とは正義である。単純で、透明で、精密で、限界のあるものだ。 人は誰でも目でそれを見ることができるし、知性によって、それを掴むことができる。なぜなら正義は測定可能で、不変で変える事が出来ないものだからだ。 正義とはこれ以上でもこれ以下でもない。
もし、この法の本来の限界を超えて、それを宗教的、博愛的、平等的、友愛的、産業的、文学的、もしくは芸術的なものとしようとするのなら、そのとき、未踏の領域で、あいまいと不確実性の中で、強制されたユートピアに、すなわち、いっそう酷いことに法を争って奪い取って、法を強制しようとする、数多くのユートピアの中に、あなたは飲み込まれてしまうのだ。
正義と違い、友愛(fraternity)と博愛(philanthropy)には明確な限界がないのは事実だ。
一旦、始まれば、どこで止まるのか? そして、法はどこで、自らを押し止めるだろうか?
68.共産主義への道
サンクリック氏は彼の博愛主義をいくつかの産業グループにだけ限定するだろう。 彼は、メーカーを利するために、法による消費者の管理を要求するだろう。
コンシデラン氏は労働組合の大義を後援するだろう。 彼は、彼らに衣類、住宅、食物、および他のあらゆる生活必需品が最小限保証されるように法を使うだろう。
ルイスブラン氏は、生活最低保証制度が、完全なる友愛の単なる始まりにすぎないと言うことだろう。 彼は、全ての勤労者が法により生産手段と自由な教育を与えられるべきだと言うだろう。
別の人は、こういった処置が不平等の余地をまだ残していることに気づくだろう。 彼は、法によって、万人が(最も近づき難い部落へさえ)高級品、文学、芸術が与えられるべきだと主張するだろう
これらの提案は全て共産主義へ至る確実な方法だ。 立法は、その時、万人の幻想と貪欲を満た
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すための戦場となるだろう。-そして実のところ、すでにそうなっているのだ。
69.安定的な政府の基礎
法とは正義である。 この命題から、単純かつ持続的な政府が考案できる。
私は、誰であれ、次のようなことを言うものに挑戦する。
政府の権力が不正義の抑制にのみ制限されていても、革命や暴動の考えや、反乱の考えが起こりうる。と、主張する者達に。
むしろ、このような政府の下でこそ、最も繁栄し、最も平等な分配が行われるだろう。
人間性と分かち難い苦しみに対しては、政府の責任を告発する考えなど生まれないだろう。
政府の力が不正(injustice)の抑圧だけに制限されているならば、政府が、気温の変化について責任が一切ないのと同様に,人間本来の苦しみに対する政府の責任がないのも真実である。
このような主張の証拠として、次の問題を検討してみよう。人々は、かつて、より高い賃金、無利子融資、生産手段、保護関税、また政府の仕事を求めて控訴裁判所に対して武力蜂起をしたとか、治安判事を襲撃したことがあっただろうか?
そのような問題が、控訴裁判所の管轄や、治安判事の司法権の役割ではないことを誰でも完全に分かっているのだ。
そして、政府がその本来の役割に制限されているならば、誰でも、すぐにこれらの役割が法の司法権の中にもないことが分かるだろう。
しかし、友愛の原則に基づいた法(―あらゆる善と悪が法に起因すると公言するもの)を、作ったとすれば、法は、災難の一つ一つに、また全ての社会的不平等に責任があることになる。こうして、際限の無い不満、立腹、トラブル、そして革命の連続に向けて、そのドアは開かれているのだ。
70.正義とは権利の平等を意味する
法とは正義である。
そして、法が正義以外の他の何かで本来ありえるとしたら、実に奇妙なことだ!
正義は正しくないのか? 権利は等しくないのか?
何の権利によって法は、ミメレル氏、ド・メラン氏、ティエール氏や、ルイスブラン氏の社会計画にあわせるよう私に強制するのか?
他人に自分の計画を強制させる道徳的な権利が法にあるとするなら、ではなぜ、法はこの紳士達に私の計画への服従を強制しないのか? 神が、私にだけはユートピアを創作するのに十分な想像力を与えなかったとするのは論理的ではない。 法は多くの幻想の中から1つを選び、その一つの幻想にのみ政府組織の力を奉仕させるべきなのか?
法とは正義である。
そして、このような概念だと、法が無神論的で、個人主義的で、薄情なものになるとは言わせないようにしよう。(–それはいつもそのように言われているのだが。)
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法がそれ自身のイメージで人類を作り上げるのだと言わせないようにしよう。 これは、法は人類そのものだと信じる政府崇拝者にだけふさわしい愚かな結論だ。
ナンセンスだ! 政府の崇拝者は、自由な人間が行為することを止めるとでも信じているのだろうか?
私達が法からエネルギーを一切受け取らなければ、我々が一切エネルギーを用いないことになるだろうか?
人々が自由に能力を活用するのを保護することだけに、法の役割を限定すれば、私達は自分の能力を使うことが出来ないということになるのだろうか?
宗教の一定の形式や、組合体制や、教育の方法や、労働の規制や、貿易の規制や、もしくは慈善活動の計画に従うことを、法が強制しなかったら、我々が無神論になり、世捨て人となり、無知、窮乏、貪欲に向かって突き進むとでも言うのか?
私達が自由ならば、神の力と善をもはや認めないことになるだろうか? その時、交際をし、互いを助け、不運な兄弟を愛し、救済し、自然の秘密を研究し、能力の限りに自分を向上するための努力といったことを止めることになるだろうか?
71.尊厳と進歩への道
法は正義である。 そして、法は正義の法の下にある。つまり、権利の統治の下に。自由、安全、安定性、責任の影響の下にある。そうであれば、人は全て、自分の本当の価値と、存在の真の尊厳を達成するだろう。
正義の法の下においてのみ、人類は(ゆっくり、けれども確実に)神がデザインした調和のある平和的な進歩を達成してゆくだろう。
このことは理論的に正しいと思われる。その問題が何であろうと。宗教であろうと、哲学であろうと、政治、経済であろうとも。
さらに、その問題がいかなるものであろうとも、常に1つの結論に達する。それが、繁栄、道徳、平等、権利、公正、進歩、責任、協力、財産、労働、貿易、資本、賃金、税金、人口、財政といった問題であろうと、政府自体の問題であろうとも。また、その問題への研究を科学の地平線上のどこから開始しようとも。
人間関係の問題の解決策とは、自由の中に見いだされるという結論に達するのだ。
72.考えの証明
そして、このことは経験が証明してないだろうか? 世界を見てみれば、 どのような国に最も平和で、最も道徳的で、最も幸福な人々がいるだろうか?
そのような人々は、法が私的な事への干渉が最も少ない国にいる。 政府の存在が最もわずかにしか感じられない所、 個人に最も大きい機会、最も自由な意見、最大の影響力がある所、 政府の管理権限が最も少なく、最も単純な所。そして、税金が最も軽く平等であり、人々の税金への不満が最も少ない所にあるのだ。
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個人と集団が責任を負うことを積極的に当然のこととして受け入れ、そしてその結果として、明らかに不完全な人間の道徳が常に改善している所。貿易、集会、組合への規制が最も少ない所。 労働、資本、人口への強制的排除が最も少ない所に、それはある。
さらに、人類の自然な性分にもっとも従っているところ。 人間が考え出したものが神の法と調和している所、 要するに、最も幸福で、最も道徳的で、最も平和な人々は、この原則に一番忠実に従っている人々だ。
人類は完全ではないが、そうではあっても、全ての希望は、権利の範囲内での自由で自発的な人間の活動にかかっている。法あるいは権力は、普遍的正義の執行以外の何にも使われるべきではない。
73.他者を支配する願望
次のことは言っておく必要がある。 世界にはあまりにも多くの“偉大な”人がいる。立法者、計画家、考えの甘い慈善家、人々のリーダー、国家の父、等々だ。
あまりに多くの人々が自分を人類より高位の立場に置いている。 彼らは、人類を組織し、パトロンにし、支配することを自分の職業にする。
すると、誰かがこう言うかもしれない。「あなた自身が、まさしくそれをしている。」と。
たしかにそうだ。 しかし、私の行動が、彼らとは全く異なる意図によることは認められてしかるべきだ。 もし私が改革者の仲間入りをするなら、それは、改革者達を説得し、彼らが人々に構わないようにさせるためだけだ。
バンクースンが自分の作ったカラクリ人形を眺めた時のように、私は人々を見ているわけではない。 むしろ、ちょうど生理学者が人体をそのまま受け入れるように、私は人々のありのままを受け入れる。 私の願いは人々を研究し、人々を賞賛することだけだ。
他のあらゆる人々に対する私の態度は、次の有名な旅行者の話によってうまく説明できる。
その旅行者はある日、野蛮な部族の村の真ん中に到着した。(そこでは、赤ん坊がちょうど生まれたところだった)。 易者、奇術師、もぐりの医者連中(リング、フック、およびコードを身につけている)が、赤ん坊を取り囲んだ。
その一人が言った。「鼻孔を広げない限り、この子は決してピースパイプの香りを嗅げないだろう」。 別の者は言った。「肩まで耳朶を引っ張らないと、この子は決して聞こえるようにならないだろう。」。 3番目が言った。「目を傾けない限り、目が見えるようにならないだろう」。 別の者は言った。「足を曲げない限り、直立して歩けないだろう」。 5番目の者が言った。「頭蓋骨を平らにならさない限り、ものを考えるようにならないだろう。」
旅行者は「止めろ!」と叫んだ。 「神のなすことはうまく出来ているのだ。 神より多くを知っていると主張してはならない。 神はいくつかの器官をこの弱い生き物に与えた。これらを訓練、使用、経験、および自由によって成長発展させなさい。」 – 41 –
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74.今こそ自由を試みよう
神は万人に、運命を遂行する上で必要な全てを与えた。 神は人間に、人間としての形態だけでなく社会的な形態をも与えた。
そして、人間に備わる、この社会的器官はとてもうまくできており、自由の清浄な空気の中で、調和をもって自ずと発展するだろう。
いかさま医と政府計画家を追い払おう! リング、チェーン、フック、ハサミを捨て去ろう! 人工的な体制を捨て去ろう!
政府計画家の気紛れや、政府が行う社会計画、中央集権、関税、学校、宗教、無利子融資、銀行業の政府独占、規制、制限、課税による平等化、偽善的な道徳化といったことをやめさせよう!
そして、立法者達、慈善家達が、あまりにも無駄に、あまりに多くの社会体制へ害を与えてきたがために、彼らは、始めるべき地点で最終的に終わることだろう。
人々が人工的なあらゆる体制を拒否し、自由を試すことを祈ろう。
なぜなら自由とは、神への信仰と神の御業を受け入れることなのだから。
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参考URL
http://www.econlib.org/library/Bastiat/basEss2.html#Chapter 2
http://bastiat.org/