採録
『探すのをやめたとき愛はみつかる』 バイロン・ケイティ・著
タイトルから、若い人の恋愛相談本のように思われる方もおいでかと思いますが、副題の「人生を美しく変える四つの質問」 というフレーズにもありますとおり、これは人の抱えるあらゆる方面の心理的な問題を見直す、シンプルで有効な手法についての本です。 原題は “I Need Your Love-Is That True?” 色恋におけるLoveだけではなく、人が生きていくうえで他人に求める好意、リスペクト、その他広い範囲の内容を扱っています。 最近、どこかのお坊さんが、人の真の幸せというのは 「愛されること ほめられること 人の役に立つこと 人に必要とされること」 と話しておいでなのをテレビで見ました。 ある視点ではその通りなのですが、もう少し高い視点から見れば、それもある段階の一つの方便、仮の真実に過ぎないように思うのです。 「人の役に立」てること、は確かに幸せですが、その他の三つ 「愛されること ほめられること 必要とされること」 は、誰でもいつでもどこででも得られるものではありません(人の役に立つこと、は自分で動けば得られるかも知れませんが、あとの三つは、他人次第です。いや厳密には、自分が頑張っても迷惑がられる場合もあり、そういう意味ではすべてが自分ひとりでは獲得できないものでもあります)。 では、それが得られない人は、真の幸せは得られないのでしょうか? そうではないかもしれないと、ケイティは語ります♪
ケイティは彼女が「ワーク」と呼ぶ、自分自身への問い直しのプロセスを提唱します。
<あなた以外に、あなたを自由にできる人はいない>
と彼女は言います。まず序文から。
<1986年に私は、現実と言い争う思考を信じるときにのみ、人は苦しむということを発見しました。 現実がそうであるのに、そうであって欲しくないと思っても、無駄なことです。 それは猫に「ワン」とほえろと教えるようなもので、死ぬまでがんばっても、やはり猫はあなたを見上げて、「にゃ~」と鳴くでしょう>
<これは一見、当然のことのように見えます。けれども、もしよく見てみるならば、こういったたぐいの思考が一日のうちに山ほど現れることに気づくでしょう> 「人はもっと優しくあるべきだ」 「こどもは行儀よくあるべき」 「隣の人はもっときちんと庭の手入れをすべきだ」 「あの人は私を捨てるべきじゃなかった」 「もっとやせなくては(あるいは、もっと魅力的にならなくては、もっと成功しなくては)」 こういった思考は、今のままの現実に対し、そうあってほしくないと期待する声です。こうして、あらゆるストレス、欲求不満、落ち込みが生まれます>
<「ワーク」になじみのない人は、よく私にこう言います。「でも、現実に抗議することをやめたら、私は力をなくしてしまうでしょう。ただ受け入れてしまったら、消極的な人生になってしまう」 -それに対し、私は答えます。「ほんとうにそうだと、あなたに分かりますか」 いったいどちらの方があなたに力を与えるでしょうか。「あの人は私を捨てるべきじゃなかったのに」 か、「あの人は行ってしまった。さて、私はどうしようか」 か。 現実をありのままに見ることで、知性的な選択をすることが可能になります。抗議することは、あなたを制限します>
<「ワーク」は、起こるべきでなかったのに、とあなたが考えていることは、起こるべきだったということを明らかにします。それは起こるべきだったのです。というのも、それは起こってしまったのですから。そして、この世のどんな思考もそれを変えることはできません。 だからといって、それを大目に見るとか、認めるということではないのです。 消極的になるのではありません。それはただ、物事を抵抗なしに、内面の葛藤というストレスなしに見るということなのです>
<だれも自分のこどもに病気になって欲しくはありません。だれも自分のパートナーに去ってもらいたくはありません。けれども、そういったことが起きたとき、マインドのなかでそれに抗議することが何の助けになるでしょうか。私たちは無邪気にそうしていますが、それはそれ以外のやり方を知らないからです>
<「ワーク」は現実とのあいだのつらい戦いをやめ、物事をクリアに見る方法を提供します。特定の、鋭い質問を用い、私たちの思考を調べ、自分の混乱に気づきます。これは自己認識です。マインドが自分に出会い、自分を紙の上にとどめ、それを問い直すことで、「あるがまま」に抗議をすることがもたらす因果関係を理解します>
さて、ケイティが提唱するのは簡単な「四つの質問」です。 その前の準備として、今自分の抱えているストレス、現実に対する抗議を紙に書き出す必要があります。 昔から、多くの宗教や道徳が、人を責めてはいけないとか裁いてはいけないと説いてきました。 しかし、それは一旦脇に置き、それらを手放すためにこそ、まず自分の中の責める心、裁く心を否定せず、ありのままに認めて紙の上に吐き出すのです。
<まわりの人たちという鏡を通して、自分でまだ理解していない自分自身を発見していくのです><「まわりの人をジャッジする」ワークシートの文章を完成させましょう。まだ自分のことは書かないように><あなたのマインドに、表現の機会を与えてあげてください。あなた以外、これを読む人はいません>
<(1) あなたはだれのせいで怒ったり、がっかりしたりしているのでしょう。そしてそれは、なぜですか。あなたが気に入らないのは何なのでしょうか。 例)私は、ポールのせいで怒っている。なぜなら彼は私を理解しないから。私を怒鳴りつけ、嫌な気分にさせるから。
私は-----のせいで怒っている(いらいらしている、がっかりしている)。なぜなら、------------------------------だから。
(2) その人にどう変わってほしいのですか。その人に何をしてほしいのでしょう。
私は-----に---------------------------してほしい。
(3) その人は何をすべきか、どうあるべきでしょうか、どう考え、どう感じるべきなのでしょう。 あるいは、どうあるべきでないのでしょうか。あなたのアドバイスはどんなものでしょうか。-----は、--------------------------べきだ。あるいは、べきではない。
(4) あなたはその人から何かを必要としていますか。あなたが幸せでいるために、その人は何をする必要があるのでしょうか。私は-----に、-----------------------------してもらうことが必要だ。
(5) あなたはその人のことをどう思っていますか。リストを作ってください。 -----は-------------------------------である。
(6) その人とのあいだで、あなたが2度と体験したくないことは何でしょうか。私は------------------------------------はもう嫌だ。体験したくない。>
これらを書き出した時点で一息ついてください。そこでケイティはこう問いかけます。
<あなたが、正しくあること(そしてそれにともなうストレスと)か、自由であることを選ぶとしたら、どちらを取りますか。
そしてあなたは、何が自分のストレスや痛みの原因になっているのか、本当に真実を知りたいですか>
そしてこれからが、肝心な「四つの質問」です。
<1) それは本当ですか。 2)それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。 3)その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。 4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。>
そんなこと聞くまでもない、答えは出ていると思われる方も少なくないと思います(「ほかにどんな答えがあるというんだ?」)でもケイティは言います。
<「ワーク」を体験するための鍵は、知的な部分からやってくる即答を超えて、より深い知恵に身を浸すということです。問いかけてから、じっとして、ハートの声が応えるのを待ってください。より深い答えが現れるのにまかせましょう。腰をすえて見ることで、自分自身の体験に信頼をもつことができるでしょう。 あなたは、自分にとっての真実は何なのか、外の世界の答えではなく、自分の答えを頼りにすることを学んでいるのです。
例:ポールは私を理解すべきだ。
質問1)それは本当ですか。 ポールがあなたを理解すべきだというのは本当でしょうか。現実はどうでしょうか。 静かにして。答えを待ってください。 もしもあなたが本当だと感じるなら、質問2に移ってください。 もしも本当ではないと感じるなら、3番に移ってください。
質問2)それが絶対に本当だと、あなたに分かるのでしょうか。
この質問は、あなたが内側に入って、それが本当にそうだということが、いったいあなたに分かるものか、もう一度問い直すための機会です。 ポールがあなたを理解すべきかどうか、あなたにいったい分かるものでしょうか。この瞬間、彼が何を理解するのがベストなのか、彼の道において、どんな理解を彼が持つべきなのか、あなたに分かるのでしょうか。いったい他の人が何を理解すべきなのかを決めるのは、あなたなのでしょうか。そして、現実はどうなのでしょう。彼はあなたを理解していますか。 世間はよってたかって「彼はあなたを理解すべきだ、夫は妻を理解すべきだ」と言うかもしれませんが。 今は、あなたにとっての真実はどうなのか、自分の体験を調べ直し、見出してください。 私は1986年に、真実は、世間で言われている理想やおとぎ話ではないということが分かりました。 真実とは、現実において起こっていることです。 「ポールは私を理解すべきだ」 それは本当ですか。私の体験では、ノーです。ポールは私を理解すべきではないというほうが、より真実に近いでしょう。それがときには、現実なのです>
<「ワーク」になじみのない人はよく、私の「べき」ということばの使い方に戸惑います。「オーケー、ケイティ。現実には彼はあなたを理解していないってことね。でも彼はそうすべきでしょ? つまり、あなたはそうするように彼に働きかける必要があるってこと」 というわけです。 私は何年もそうしようとがんばって、そのあげくに得たのが、落ち込みと怒りでした。彼に理解してもらいたいと思った唯一の理由は、そうなれば私が幸せになれるだろうと思ったからです。けれども、彼は私を理解すべきだという言葉を信じるのをやめたとき、私は幸せになりました!世界と戦うことによって、自分に安らぎをもたらすことができるだろうという気違いじみた思い込みを捨てたのです。起こるべきことは、当然ながら、現に起こっていることであり、本当に今起こっていることなのです。それ以外のことは、たんなる空想、ストーリーであるにすぎません>
ケイティの提唱するのは、徹底したリアリズムです。彼女の使う「べき」という言葉を上っ面で誤解なさらないでください。ひどい犯罪に合われた方などに、あなたはひどい目に合って当然だ、などと言っているのではありません。起こってしまったことを、いくら思考や言葉で「起こるべきではなった」と否定し嘆こうと、何も状況は変わらないし、幸せにもならないということです。 冒頭で引用したように<いったいどちらの方があなたに力を与えるでしょうか。「あの人は私を捨てるべきじゃなかったのに」 か、「あの人は行ってしまった。さて、私はどうしようか」> です。
ケイティの「ワーク」は彼女の決める「押し付け」ではありません。その種の人格改造セミナーや宗教の類ではなく、あくまで答えの決定権は自分にあります。彼女は言います。
<そう私が言ったからといって、それを信じないでください。 もしも2番目の質問の答えが「イエス」であってもいいのです。 間違った答えはありません。 問い直しのプロセスを続けてください。質問で、思考のあとにやってくる感情を見直していきます><質問3)その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょうか。「ポールは私を理解すべきだ」 と考え、彼がそうしないとき、何が起こりますか。リストを作ってください。 彼をどう扱うでしょう。肉体はどんな感じですか。そう考えるとき、どんな影響があるのかに、よく気づいてください。そして、自分にきいてみてください。「その考えは、私の人生にストレスをもたらすだろうか、安らぎをもたらすだろうか」>
<質問4)その思考がなければ、あなたは誰でしょう。 目を閉じて。あなたが変えたいと思っているその人が目の前にいるところを思い描いてみましょう。 そしてほんの一瞬でも、その思いなしに、その人を見つめているところをイメージしてください。何が見えますか。 そして、あなたを理解すべきだというストーリーとともにあなたが行為するとき、相手をどう扱うでしょうか。この考えがなければ、あなたの人生はどんなでしょうか>
<ここでのゴールは、自分の反応の仕方を変えようとしたり、人生を違った目で見ようとすることではありません。これは、あなたが内側に入って、あなたの考えと、それがもたらす結果をシンプルに問い直し、見直す機会なのです。 あなたがこの関係をクリアに見ると、その結果、人生は自動的に変わります。そうならざるを得ません。 というのも、いったん精神的な苦しみが世界そのもののせいではなく、世界に対する自分の考えのせいだということが分かれば、問題は自分を理解するための機会となり、生はギフトとなるからです>
人生の幸不幸は誰にとっても同じ絶対的な基準などありません。 生死でさえも、ある人にとっては希望であり、ある人にとっては絶望です。 その価値を決めているのは自分の心です。 著者のバイロン・ケイティは、こうして四つの質問に対して書き出された回答を「ひっくり返し」てみることを勧めます。
<ひっくり返す 4つの質問で自分が書いた文章を見直すと、それをひっくり返す準備ができました。 ひっくり返しは、あなたが真実だと思っていることの反対を体験するための機会です。 例えば、「私はポールに対して怒っている。なぜなら彼は私を理解しないから」 は、ひっくり返すと、「私は私に対して怒っている。なぜなら私を理解しないから」 となります。これも同じぐらい真実か、あるいはより真実に近いでしょうか。 私が私を理解しないので、同じことに関して、ポールにくり返し頭に来るということもあるでしょうか。 もしも私が私を理解しないなら、ポールが私を理解しないかどうかが、私に分かるでしょうか。 もうひとつのひっくり返し方は、「私は私に怒っている、なぜなら私はポールを理解しないから」 分かりますか>
<ひっくり返しでは、クリエイティブになってください。 これらは啓示であり、他者があなた自身に見えていない自分の一面を見せてくれるものなのです。2つか3つ以上のひっくり返し方が見つかることもありますが、そのどれもあなたが書いたものと同じぐらい、あるいはそれ以上に真実でしょう。内側に入り、そのひとつひとつをじっくり見てください。あなたにとって、どれが真実でしょうか。自分に感じさせてあげてください。 私がこのひっくり返しとともに生き始めたとき、「あなた」と呼んでいたものはすべて、自分だということに気づきました。あなたは私の思考が現実として投影されたものに過ぎなかったのです>
<今は、まわりの世界を変えようとする代わりに(これはうまくいきませんでした。43年間、ずっと)、思考を紙に書き取り、それを見直し、ひっくり返し、あなただと思っていた当のものが自分だということを見つけます>
<あなたは優しくないと私が思う瞬間、私は優しくないのです。 もしもあなたは戦いをやめるべきだと私が信じているなら、私は自分のマインドのなかで、あなたに戦いをしかけてはいないでしょうか。もしそうならば、私は戦争を教えているのです。 あなたがもっと「ワーク」になじんでくると、ひっくり返しをする機会にどんどん気づいていくでしょう。 たとえば、あなたがある人に会い、傲慢な人だなあと思ったとしましょう。そしたら、自分にたずねてみてください。「私も同じぐらいそうだろうか。ときには私もそうだろうか。他の人がどうすべきだとか、どうすべきでないと考えるとき、私は傲慢だ、と言えるだろうか」 このひっくり返しは、あなたの幸せへの処方です。 あなたが他の人に処方してきた薬を自分で取ってみてください。 私たちは、たった一人の生きた教師を待っています。それはあなたなのです>
そして、ひっくり返すことで、どのような理解がもたらされるか、いくつかの例があげられています。
「彼女は私を理解すべきだ」は、ひっくり返すと ・彼女は私を理解すべきではない。(ときには、これが現実です。) ・私は彼女を理解すべきだ。 ・私は私を理解すべきだ。
「私は友人に優しくしてもらう必要がある」は、ひっくり返すと、 ・私は友人に優しくしてもらう必要はない。 ・私は友人に優しくする必要がある。(そうできますか。) ・私は私に優しくする必要がある。
「彼は私に愛情がない」は、ひっくり返すと、 ・彼は私に愛情がある(彼のできる最大限で)。 ・私は彼に愛情がない。(分かりますか。) ・私は私に愛情がない。(ジャッジをして、それを問い直さないとき)
「同僚は私に怒鳴るべきでない」は、ひっくり返すと、 ・同僚は私に怒鳴るべきだ。(明らかにそうだ。同僚は実際そうなのだから。) ・私は同僚に怒鳴るべきでない。 ・私は私に怒鳴るべきでない。(頭のなかで、同僚が怒鳴っているのをくり返しくり返し反芻しているのでは?)
なんとなく、要領がお分りいただけたでしょうか? これらのひっくり返しの文章が、全部正しいというわけではありません。 そういう視点もあるというだけであり、それをどう受け止めるかは自分の自由です。
このあと、ケイティはもう一歩踏み込んだ考え直しを提案しています。 自分がワークシート(前回の記事参照)の6番目に書いた、困った相手と二度と体験したくないことを、ひっくり返して見るのです。 たとえば「私は同僚と二度とケンカしたくない」なら「私は是非もう一度同僚とケンカしたい」というように(笑
<6番目はあらゆるマインド、それゆえにあらゆる生の側面を、恐れることなく抱きしめ、現実に開いていくものです。 もしあなたが頭のなかだけでも、もう一度ポールとケンカを始めたら、いい機会です。それがもし痛みに満ちているなら、それを紙に書きとめ、調べ直してください。不快なフィーリングは、自分にとって真実ではない思考にしがみついているということを思い出させてくれるでしょう。それは「ワーク」のときだと知らせてくれるのです>
<あなたが、敵を友人と見なせるまで、あなたの「ワーク」は終わりません。 こう言ったからといって、その人たちを夕食に招待する必要はないのです。 愛は内面の体験です。あなたは決して彼らに会うことはないかも知れませんが、あなたが彼らのことを思うとき、ストレスを感じるでしょうか。それとも安らぎですか>
<不快な感情を楽しみにすることを勧めたいと思います。 それは、あなたが、問い直していないある信じ込みにしがみついていて、「ワーク」をするときだ、と教えてくれる、目覚まし時計のアラームのようなものです。 問い直しを通して、明晰さを手に入れてください。 理解を持って、不快な感情と出会ってください。 どうして外の誰かが満足と平和をもたらしてくれることを待っているのですか。安らぎはいつも、あなたの内側、4つの質問のすぐ先にあるのです>
以上かいつまんで、バイロン・ケイティの推奨する「ワーク」についてご紹介いたしました。 その1でも申し上げましたとおり、冒頭の書籍は出版社が引用を拒否していますため、同じくケイティの出しました小冊子(商業利用でない限りコピー、引用OK)からの転載です。
<現実と争うときあなたは負ける。必ず>
というケイティの言葉は名言だと思います。
<全世界には三つの物事しかないということを私は見つけました。 私の物事、 あなたの物事、 神(あるいは、高次のパワーと言い換えてもけっこうです。私にとっては、現実が神です。なぜなら、それが統治しているのですから)の物事。 もし、あなたが自分の人生を生きていて、私がマインドのなかであなたの人生を生きているならば、誰がここで私の人生を生きることになるのでしょうか。 もちろん、私は孤独でしょう。マインドのなかで、人の物事に首を突っ込むことで、私は自分を留守にしてしまいます。 他の人の最善の道が自分には分かるというのは、傲慢というものです。 長い目で見て、あなたの人生において何がベストか、あなた以上に本当に私に分かるのでしょうか。この傲慢が、緊張や心配や寂しさをもたらします。次の機会に孤独や分離感を感じたならば、自分にきいてみてください。「私は誰の物事に首を突っ込んでいるのか」と>
先にお断りしましたとおり、ケイティの方法は一つのツールであって、何か確実な正しさなどを提供するものではないのです。 彼女の方法にも足らない部分はあります。 トランスパーソナル心理学のケン・ウィルバーも、それを指摘しつつ、しかし彼女の「ワーク」には、形而上的知性に対するすばらしい技巧と、仏教で言うところの「空(くう)」に通じる思想があり、大いに意義あるものであると評価しています。 人間にとっての「現実」リアリティというものは、個人とそれ以外の世界が互いに影響しあって形作られるものであり、100%自己と無関係に存在するものでもなければ、100%自己が形作るものではありません(形而上的に高次の視点に立てばまた別かもしれませんが、それは置きます)。 人の思考と言うのは、白紙の上に一から「私」が書きこんでいくものではなく、それ以前に知らぬ間に決定付けられた多くのものが存在します。それはまた心理学の話題として別の機会に触れたいと思います。 ケイティは、その方面に関して今ひとつ理解が足りない、とウィルバーは言っているようなのですが、それは、我々一人一人が自分で補って読めばいいと思っています。
最後に、ケイティ語録からいくつか引用して終わります。
<私を好きになるのはあなたの仕事ではない--それは私の仕事だ>
<正気はけっして苦しまない>
<人格は愛さない--それは何かを手に入れようとする>
<自分の進化の程度を偽らないように>
<あなたが必要としている教師は、あなたが一緒に住んでいる人です。あなた、きいていますか>
<私は自分の観念を手放しはしない。私はそれと出会い、問い直す、するとそれが私を手放す>
この記事の「その1」で、最近、どこかのお坊さんが、人の真の幸せというのは 「愛されること ほめられること 人の役に立つこと 人に必要とされること」 と話しておいでなのをテレビで見ました、と申し上げました。 しかし、ケイティの「ワーク」についてお知りになると、けしてその限りではないことが垣間見えるのではないでしょうか。 ケイティは言います。<私に祈りがあるとしたら、それはこうなるだろう:「愛されること、認められること、感謝されることを望まないでいられますように、アーメン」>