上方落語 建礼門院

 え~、京都でございますんで「祇園精舎の鐘の声(おと)、諸行無常の響きあり」といぅ、おなじみ平家物語の最初でございますが、奢れる者は久しからず。あのねぇ、こらそぉでっせ「奢る者は久しからず」っちゅうのはホンマにわたし何べんも経験したことおまんねん。
 取り巻きがねぇ「ちょっと師匠、行きまひょ、まッ、よろしぃやないか」わぁ~ッと行きますやろ、つい勘定払わされまんねん。こらあんた、何べんもは行けまへんで「奢る者、久しからず」っちゅうのはね、これから始まったといぅぐらいのもんですが。
 でもこの、平家と源氏、源平盛衰の噺といぅのは、いつの時代になりましてもおなじみが深い。源氏と平家が戦いまして、やがて安徳天皇が壇ノ浦で入水(じゅすい)あそばす。
 ですからあれわたしね、今の皇室といぅのが一種ちょっと疑問を感じることがあるんです。あの皇室に納まっておりますのが「三種の神器(じんぎ)」といぅ、こらあのご承知でしょ~、八尺瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)と、八咫(やた)のみ鏡、ほんでこのも一つは草薙(くさなぎ)の剣・天叢雲(あまのむらくも)の剣といぅやつですな。
 これがね、果たして三つ揃ろてんのかと思うんですよ。といぅのが、八咫のみ鏡といぅのは安徳天皇と一緒に壇ノ浦へ沈んだわけですからなぁ、この沈んだ鏡ちゅうのはこれ引き上げたちゅう話聞ぃたことないんです。
 でこの、天叢雲の剣、よぉするにこれはですね、熱田神宮のご神体ですから熱田神宮の社殿奥深く納まってるはずでしょ? ほな、あと残ってんのは八尺瓊の曲玉が一個ですわ。ところがこの八尺瓊の曲玉はですね、南朝系へ伝わったといぅ話がある。
 あの~、南朝て耳が遠いんやないんでっせ、今の天皇は北朝系ですから。実はね、こらここだけの話ですがね、戦後のある時期ね、熊沢天皇といぅんが現われたことあるんです。
 ご年配の方はご記憶でございましょ~が、こらあの熊沢天皇といぅ名古屋の人ですが、この熊沢天皇が「自分こそ南朝系の直系である」といぅんで、片一方の天皇は臣籍ご降下でございまして、人間天皇におなりになった頃にですね、片一方のほぉは「われこそ南朝系の天皇である」と、熊沢天皇が名乗りを上げたことがあるん。
 この熊沢天皇が「これこそ正真正銘の八尺瓊の曲玉である」て、曲玉を白木の櫃(ひつ)に入れまして、十六菊の紋章打った白い布で包みましてね、これを担ぎまして全国遊説したことがあるんです。
 何を隠そぉ、そのときにわたし侍従長を半年やったんです、熊沢天皇の侍従長。そらねぇ、面白かったでっせ、楽しかったですなぁ。やっぱり南朝系をいまだにね、尊望してるところがあるんです、あの大和の十津川郷とかね、それから四国の祖谷(いや)とか。
 あんなとこ行きますと、いまだにどちらかといぅと南朝系を尊仰しておりましてな、そぉいぅところへ熊沢天皇がご遊説あそばす。侍従長が前へ出まして南北朝の物語、南朝の中心楠木正成とかね、あんな噺をやるわけですよ、侍従長が、つまりわたくしが。
 で、そのあとで熊沢天皇がお出ましになりまして、南朝がいかに正しぃかといぅことをご講演あそばす。それでズゥ~ッとこぉ回ったんです。十津川なんか行きますとね、いまだにその……、いまだにて、今から考えますともぉ四十年ぐらい前の話ですなぁ。
 その当時でも村長(むらおさ)、昔で言ぅお庄屋さんですな、あのあたりがね、娘連れて来まんねん「やんごとなきお方のお胤(たね)を頂戴いたしとぉございます」お胤頂戴ちゅうんがあるんです。
 こらあんた、なんぼ熊沢天皇でもね、そんなもんあんた、お胤頂戴てあんた、そんなお胤が続くわけないんです。どぉかするとこっちの村長、あっちの村長、二、三人来ることがあるんですなぁ。そぉするともぉね、天皇の手が回らんから「侍従長、お前も手伝え」てなもんですなぁ。
 幸いわたくしが本名が明田川(あけたがわ)といぅんですな、明治の明に田んぼの田、三本の川「明田川」こらえぇ名前、わたし先祖に感謝したい。せやからわたしその頃に申しましたんです。
 「いや~、この頃は世の中も変わりまして東久邇(ひがしくに)、北白川、昔はみな宮が付いたんです。東久邇ノ宮とか北白川ノ宮とか申しましたが、この頃はそぉいぅことはなくなりまして東久邇、北白川とこぉなったわけですなぁ。わたくしも、明田川ですが……」と。
 何も言わしまへん、わたくしは。向こぉがどない思うか、そら向こぉの勝手や。わたしゃ何にも言ぅてしまへん「昔は東久邇宮、北白川宮と言ぅたんですが、今は宮がなくなりまして単なる東久邇、北白川。とこぉなったわけで、わたくしも明田川ですが」と……、向こぉどぉ思うか、そんなことわたしゃ知ったこっちゃないのん。
 そぉすると非常にありがたがってですね、もぉあんた「薬、塗ってもらいたい」ちゅうのが現われるんですなぁ。そぉいぅ時代がございました。こらもぉ今時効やと思いますんで申しますが、これ一昔前やってみなはれ、不敬罪でっせ。
 ねぇ、その時分てなね、日本は終戦の真っ只中でもぉ食べるもんがなかってね、そんな中で金ばっかり要るばっかりで、不経済ちゅうのはこれから始まった。
 え~、そんなことがございましたが、この壇ノ浦において安徳天皇がお沈みになった。源平盛衰といぅことになりますと、このご当地、京都といぅところは非常にこれに縁の深いところでね、あの五条の大橋で牛若丸と弁慶が「♪ここと思えばまたあちら、ツバメのよぉな早業」といぅ童謡にもございますけれども、五条の橋の上で弁慶と牛若丸が一戦を交えたといぅ。
 あの弁慶といぅのはあんだけ図体が大きかったんですが、あんまり女性を知らんのですなぁ。生涯に弁慶の一番勝負、てなことを言ぃまして、弁慶は生涯に女性は一人しか知らなんだ。その一人しか知らなんだ女性が、あの堀川夜討ちのときに現われるあの女性でございますが、それはまぁさておきまして、弁慶といぅのはいっぺんきり。
 ですから川柳ていぅのは面白いことを申します「弁慶と小町は馬鹿だなぁ嬶(かか)ぁ」といぅ川柳。弁慶と、小町は馬鹿だなぁ、嬶ぁ。こらねぇ、故実に詳しぃ方でないとお分かりにくいと思います。ちょっとだけ説明いたします。
 川柳に説明するてな、なんか野暮みたいですけど、つまりこの、弁慶は生涯にいっぺんしか女性を知らない。ね、小町といぅのは小野小町でございます。こらあの、女の方はお裁縫なさいます、待ち針といぅのをお打ちになります。あの待ち針といぅのは縫い針と違いまして針孔(めど)がないんです。つまり、針に穴が開いていないんでございます。
 つまり小野小町といぅのは穴がなかったといぅ、そいでこの「小町針」待ち針といぅことになる。つまり、小野小町といぅ人はいっぺんも男性を知らぬままでお亡くなりになる。
 ですから、亭主と嫁はんとがね、どんなときにどんなことで思い出したんか知らんけども「こんなえぇもんがあんのに」ちゅうとこでっしゃろ「弁慶と小町は馬鹿だなぁ嬶ぁ」と、よろしまっか?
 弁慶といぅのは図体大きぃ、だいたい図体、体格がぇといぅことになりますと、あっちの方も達者なはずなんです、本来わ。せやからその、立ったと思いまっせ、立つべきときに立たなんだら男やないちゅなぐらいのもんですから。
 選挙でもそぉです、選挙でもはじめは立つとこから始まるんです。でこの、立ったときにですよ、立ったやつがうまいこと入ったときに「あぁ良かった」と、こぉなるわけで、立っただけで終わったら何もならへんわけですから。
 ですから、この弁慶かて立ったと思うんですが、たったいっぺん一番最初にやったときが問題ですわ。初めてのときちゅうのはね、もぉ入口でバケツをぶち返すといぅね、入口で「ごめんなさい」ちゅうのがある。
 そぉかと思うと、この緊張の余り、なかなか終結を迎えないといぅことがあるんですなぁ。まぁ、幸か不幸かディック・ミネさんとかわたしとかは最初のときに終結を迎えなかった方で、ですから、最初実はね、ぶっちゃけた話、わたし最初はね、人妻やったんです、十四のときにへぇ。
 そのときにその人の奥さんね、それでも七つ上ですからね、七つ上ったって二十一ですよ、わたしが十四ですから。二十一の人妻、そらあんた、なかなか終結を迎えないもんですから、その方が「春坊さん、あんたのお嫁さんになる人、幸せやと思うわ」て言ぅてくれたんです。
 そのときは半分ぐらいなんのこっちゃ分からなんだんですけどね、のちに至りましてうちの家内が大変に喜んでくれまして、でまぁ、こない喜んでもらえんねんやったら、ちょっとあちこちへも奉仕せないかんなぁと、もぉライオンズ(クラブ)と一緒でございまして、奉仕と友愛のまことをあちらこちらへ広めまわってるよぉなことですが。
 え~、で、何の噺でしたかなぁ? あッそぉそぉ、弁慶べんけぇ、弁慶はその反対にもぉ入口で「ごめんなさい」といぅ口でね、ところがその相手の女性が、これだけ図体が大きぃねんやさかいに定めしリキのあるやろと思てるやつが入口でしまいやから「ん~ん、ん~ん、弱い人」と、これでんねん。
 男は意外とこれでね、参ってしまうんですなぁ。もぉいっぺんと思ててもですよ「あんたて弱い人やね」て言われると、それだけでチュンと縮んでしまうんですえぇ。意気消沈といぅのはこれから始まったといぅぐらいのもんで。ですから弁慶といぅのはそれっきり、もぉこの意欲を喪失いたしまして、あんまりこのやらない。
 片一方は牛若丸、こらえぇ男です。まして笛吹いたりなんかといぅことしますえぇ男。元々この牛若丸、のちの九郎判官義経ですが、これの生い立ちがそもそも色っぽいですなぁ。育つ過程においてですが、色っぽいことをいろいろ見聞きする機会が多かった。
 と申しますのが、この義経のお父っつぁんが源義朝と申しまして、これが平家との戦いで討ち死にをいたしました。で、討ち死にをいたしますと当然、戦争未亡人といぅのができるわけで、この義朝の嫁はんが常盤御前、これが絶世の美女やったんですなぁ。
 当時この、京都に今でも六波羅といぅところがございますが、あの六波羅に探題がございまして、平家の大将が平清盛。この清盛が戦争未亡人の常盤にぞっこん懸想(けそぉ)いたしました、平たく言ぅと惚れたんですなぁ。せやさかいあんた、そこは勝ってる方でっさかいにね、強いもんでんねん。
 清盛「なぁ常盤、えぇやないかお前、ちょっといっぺんさしたれや、別に減るもんやなし。どや?」常盤「そんなアホなこと、操を立てて……」「操みたいなもん立てても立てんでもえぇやないかお前、俺、こんだけ思てんねや。なぁ、ちょっといっぺんだけ頼むわ。いっぺんだけでえぇねん、な、な、なぁえぇやん」
 「なぁ、あかんのん? いや、あかなんだらこっちにも覚悟はある。そら、あかんならあかんでえぇよ、あかんといぅのんなら、お前とこの倅(せがれ)なぁ、今若、乙若、牛若、三人とも首斬ってまうで。でや? 三人の子どもが可愛いことないんか? お前の腹痛めた子ども、今若、乙若、牛若、三人ともやってまうぞ。でや? それでもえぇのんか?」
 「そのよぉなこと……」「な、な、子どもが大事やと思たら、なぁ、ちょっとえぇやん、な、入口だけでえぇねん。なぁ、ちょっと」「ん~ん、されども、そのよぉなことは、わらわは……」
 「わらわも藁灰もあるかいなお前、えぇやないかいな……」清盛もヒツコイ、徹夜で口説きよったんですなぁ。夜の明け方になって「まぁしょ~がない」といぅんで常盤も諦めたんでしょ~、夜の白々明けになって遂に「うん」と言ぅた。
 夜通し、次の日の朝まで、そこで「うん」と言ぅた、ときは午前、といぅぐらい。
 で、操を破って操を立てたと申しますが「操を破って操を立てた」どこが破れたんか、どこが立ったんか、わたしゃこのあたりは複雑怪奇やと思いますが、それで今若、乙若、牛若、といぅ三人の命が助かった。
 その助かった一人の牛若でっさかいに、こらもぉね、その道の権化みたいなもんです。それで助かったんですから。それが頭にありますから「あぁいぅものはえぇもんや」と。せやさかい、形(なり)からしてそぉでんがな、男か女か分からんよぉな格好(かっこ)して。
 だいたいこの、男か女か分からんよぉな格好ちゅうのが持てまんねんなぁ。あのグループサウンズでもそぉでっしゃろ、男か女かひっくり返してみな分からんちゅな格好してあんた「♪ジャンジャン、ジャンジャン」とやるから、何となく持てるわけですなぁ。
 牛若もご多分に漏れず、男か女か分からんよぉな格好をいたしまして、まして楽器を奏でる。あの楽器の人といぅのはね、女性の腹へ響く。男でも腹へ響きます、女性の場合はもっと奥の深いとこへ響くんですてね。ですからこの、笛の音といぅのは甲高い調子がいたします、女性の心へス~ッと染み入っていく。
 格好がえぇとこへ笛吹くんでっさかいに、持てんわけがない。これが夜な夜な五条の橋の上へ出てでっせ、あの辺に夕涼みに来る女性を次から次ぃ、次から次ぃとこぉね。そぉするとあんた、弁慶はいっぺんしかしたことない。大長刀(おおなぎなた)といぅぐらいでっさかいに、よっぽど大きぃやつ持っとったんですなぁ、抜き身の大きぃやつですわ。
 抜き身の大きぃやつ持ってんのにどないもならん、片一方は男や女や分からん格好して「♪ヒィ~ララ、ヒィ~ララ」で、相手の女も「♪ヒィ~ララ、ヒィ~ララ」とこぉなるわけでっさかいに、そら弁慶、腹立つわいな。
 「おんどれ、えぇかげんにさらさんかい。何さらしてけつかんねん、笛なんぞ吹きやがって、女ご次から次いきやがって。わしら何にもないやないかい、くそたれめが、いてこましたろか」といぅのが、五条の橋のあの戦いなんですなぁ、あれは。
 またあんた、片一方は「ここと思えばまたあちら、ツバメのような早業に」といぅんでっさかいに、ここと思えばまたあちら、もぉあんた、縦横無尽に飛び跳ねるもんですからなぁ、相手の方もそら「ヒィ~ッ」とこぉなるはずなんですなぁ、こら実にものの道理でございます。
 そこから始まりまして、名も九郎判官義経といぅぐらいですから一通りや二通りやない、いろんな苦労を嘗め尽くしてきてる。お分かりですか? いろんな苦労を嘗め尽くしてきてるわけです。これがやがて源九郎判官義経となりますや、平家を西海へ追い詰めます。
 で、壇ノ浦、安徳帝は入水しはった。それに連れて建礼門院といぅ、これはやんごとないお方でございすが「今はこれまで」と覚悟を決めて、この建礼門院もザンブと海へ飛び込んだんですが、その一瞬早く、かのとき早くかのとき遅く、源九郎判官義経はチラッとこれに目がいった。
 「(チラッ)あッ、えぇ女や。あの女、あれいてこまさなんだら九郎判官の名が廃る」ちゅなもんで、建礼門院がザンブと飛び込んだところへ「あの者を引き上げよッ!」そらあんた、手下はもぉ慣れてまんがな「あッ、こら大将、またこれに目ぇ付けよってんな」引っ張り上げたんだ。
 もぉあんた、海へ飛び込んだんですからね、ましてあんた別嬪ですから、こらもぉビジョビジョちゅうのはこれから始まったぐらいで、もぉズンブリと濡れてたんでっさかいに、あとの仕事のしやすいこと。
 「これさ、まぁよいではないか」「あれ~、そのよぉなこと」「よいではないか」と言ぅてるうちに、かの『壇の浦夜合(やごぉ)戦記』といぅ古い書物によりますと「浪音(ろぉせぇ)はなはだしく、陰水(しんえき)浪々として滴る」とこぉいぅ。
 難しぃですなぁ、この漢文といぅのは。陰水といぅのはね、あの水でんねんなぁ、つまり陰なる水と書きますですが、これを「しんえき」と中国では言ぅんですなぁ。浪々として浪のごとく滴るといぅんでっさかい、よっぽどボトボトやったんですなぁ。
 「陰水浪々として滴る」ここへあんた、もぉ慣れになれた義経の一刀がズブリッととどめのひと太刀が入った。ここと思えばまたあちらツバメのよぉな早業に、浪音はなはだし、とこぉいぅ。浪の音と書いて「ろぉせぇ」と読むんですが、こらあの平たく申しますとよがり声なんです。これを中国では浪音といぅ、浪の音。
 まぁねぇ、そら浪の音ザ~ッと引ぃていってザザザザザ~ッ、ザブ~ンッ、こらなるほど合うんです。ザブ~ンのときにドブ~ン、ザザザザザ~ッ、ドブ~ン。この差し引きといぅのは実に鮮やかなもん。浪音はなはだしと申します。
 それだけの千軍万馬の強者(つわもの)ですが、次から次ぃ次から次ぃといくもんでっさかいねぇ、この「建礼門院と一緒になった」といぅのが、時の鎌倉頼朝といぅ、こらあの今若が大きくなって頼朝になった、つまりこの兄貴ですなぁ、兄貴に聞こえた。
 「この兄貴がしたこともないのに、弟ばっかりぎょ~さんしやがって、この馬鹿タレめ」と、この頼朝が焼餅を焼きまして、義経をおいといたんでは自分のとこへ女が回ってこんちゅうわけなんです。せやからその「義経をイテマエ」とこぉなったわけです。兄弟喧嘩。
 この義経の方もそこらにいてると命が危ないといぅので、遂に吉野山へ身を隠した。吉野山、こないだもわたし行ってまいりましたが、吉野山に義経が潜んだ経堂といぅのがあります。ところがそこにですね、義経、よっちゃんとよっちゃんの愛人の「しぃちゃん」ちゅうのがいてまんねん、静御前。
 静御前といぅのは、こら白拍子(しらびょ~し)の上がりですから、ね~、こら今で言ぅたら男装の麗人みたいなもんですなぁ。烏帽子・水干(えぼし・すいかん)に身を固めまして、太刀をはいて踊りを踊る。これが白拍子。
 烏帽子水干で太刀をはいてね、この水干といぅところご記憶にとどめていただきたい。水干といぅのは「みずにほす」と書くんですね。で、このときに兄弟といえどもこぉなったら別れ別れになる、兄弟の仁義、兄弟仁義……「♪俺の目を~……」
 そんなことはどっちでもよろしんですが「兄弟の仁義も当てにならん。わしゃこんな仁義は嫌いや」と言ぅた義経が、のちに仁義好かんになったん。
 でこの、吉野山で別れを惜しんで、このしぃちゃんと別れます。このしぃちゃんはまたのちにですね、また呼び出されて口説かれるわけですなぁ。で、ついに「舞を舞え」と言われる、そのときに舞いましたのが「しずやしず、しずの苧環(おだまき)繰り返し……(しずの苧環)」といぅのを踊るわけですねぇ。
 また片一方、義経の方はこれから奥州から樺太へ渡りまして、カラフトからシベリアへ回ってジンギスカンになったでしょ。あれはジンギスカンになったといぅのは、あそこで一応成功したわけですからな、それはそれで生き延びて成功した。
 つまり、まぁ、大吉と言ぃますか、吉を生んだわけですから、大成功しましたけれども烏帽子・水干の君が忘れられないといぅので「吉成りて、水干を思う」と付けたのが「成吉思汗(じんぎすかん)」つまり水偏に干すで汗。ほかの噺家、こんなことよぉ言(ゆ)えしまへんで。わたしらやっぱりね、ケンブリッジ大学出てるから……
 しかしながらですな、この吉野山でですよ、喋々喃々(ちょ~ちょ~なんなん)と、もぉ人間死ぬか生きるかちゅうときはあれしかないんです。ですからあの、心中の現場へ行くと紙がいっぱい落ちてるといぅんですが、どぉいぅ意味やわたし知らんのです。
 それぐらいのもんですから、吉野山における二人のね、しぃちゃんとよっちゃんのね、こらもぉすごかったと思うんです。と、弁慶といぅやつは馬鹿ですからこれ、図体が大っきぃばっかりで、もしものことがあったらいかんといぅんで若君様のご守護と、次の間へ控えてこぉ決まってるわけでしょ。
 次の間へ控えてる、その隣りでやねぇ、しぃちゃんとよっちゃんがやね、ヒィヒィハァハァ、ホォホォヘェヘェと、これねぇ、これ弁慶はたまらなんだと思うんですなぁ。ですから、この弁慶はですね、フンドシがボロボロになったちゅうんです。
 で、こら普通のフンドシではどもならんちゅうんで、特別に皮製のフンドシをこしらえた。これであんた、やっと保てたといぅんですなぁ、よっぽどせやさかい、勢いが良かったんでっしゃろ。
 しかし、これとても長続きはいたしません「♪旅の衣はすずかけのぉ~、旅の衣はすずかけのぉ~」と陸奥(みちのく)へ落ちて行く、その途中で藤原秀衡(ひでひら)のとこへ寄ります。と、ここの娘がまたよっちゃんに惚れまんねん。
 ここでまた喋々喃々でっしゃろ、まぁここ詳しぃやりたいんですけど、あんまり詳しぃやってると逃げる間ぁがないんでね、噺は飛ばしますけども。
 ここでも危ない、ここへも頼朝の軍勢が押し寄せて来る。もぉ弁慶はそれを聞き通しでっさかいに、せっかく皮でこしらえたフンドシですけども、皮でこしらえたぁるだけに突き破るわけにもいかず、もぉ物代(ものしろ)は立ち上がってくるは破るわけにいかず、弁慶は……衣川(ころもかわ)で立ち、往生いたしました。