M9.0巨大地震と空前絶後の津波と福島原発事故と直列コンピュータと並列コンピュータと孤立コンピュータ

2011年3月11日午後2時46分ころ、東北地方中心に大きな地震があり東日本大震災と命名された。

M9.0、その後に巨大な津波、断片的な話の中には高さ10メートル、秒速4メートルとかの話
津波の実態は土石流であり車であり建物であり屋根であり船であり丸太である
どうしてあんなにも丸太が多いのだろう
テレビ画像で見ると何ともあまりの変わり様
さらに原発関係で幾度にも渡る記者会見
ある程度状況が分かっていると怖くて接近できないので詳細のデータがない
具体的詳細データがないので一般論に終始する
周辺部分が破壊されただけで中心部分は問題ないと言っているが
中心部分をフェイル・セーフに保つ技術があるのならば
どうして周辺部で凡ミスのようなものが発生しているのだろう
周辺部分では急に技術力や保守力が低下してしまうのだろうか
そんなことはない
一体として総合設計されているはずである
原発は日本国として輸出商品であるから商品の欠陥を晒すわけにはいかないだろうとは思う
しかし、それにしても、しくみとして、東電は脳の集団として直列コンピュータだと思うのである
計画停電の周知段階でミスを重ねたこと、さらに実施段階で、需給ギャップが生じなかったので停電にしなかったともいう
アメリカで議論されていたスマート・グリッドなどとは対極的で
実に中央集権的で直列コンピュータ的である
上から降りてきた決定もデータを当然の前提として仕事をすすめる
そして自分の実行部分を遂行して、次にバトンタッチする
これに対して並列コンピュータはオープンにされた基礎データをもとにしてそれそれの脳が答えをはじきだす
つまり判断を下す
それをお互いに比較検討して自己修正する
どうせ同じ答えが出るならほとんどの並列コンピュータは無駄なのであるが
しかし少なくとも直列コンピュータ的な愚劣な間違いを訂正しないで放置するよりはいいのではないかと思われる
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人間の脳は並列コンピュータになってうまく機能するのだと考えられる
あるいは並列コンピュータの場合に徒労を回避できるのだろう
脳が孤立してスタンドアローンで存在している場合、それは脳内で直列構造を作ってしまっている事に近い
そうではなくて孤立していても脳内で並列的な働きを実現することもできる
脳の中で並列的な働き方をさせるとは
つまり考え直すことができること
別の考えができること
認知の訂正ができるということだ
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話が分かりにくくなったが
直列型は素早いが大きな間違いをしやすい
並列型は遅いが大きな間違いをしにくい
ということになるだろう
そして脳が孤立している場合は大きな間違いをしやすい
間違いはだれにでもあるからだ
それを訂正するのは他人の存在が大きい
過剰に悲しんでいるときに他人がその過剰さを訂正してくれることがある
孤立した脳の働きも細かく考えてみると
脳の内部で直列的な部分と並列的な部分とを考えることができる
認知療法的に認知の検証をしたり訂正をしたりするのは
脳の内部で並列部分があるからである
訂正して『正しさ』に行き着くとして、それは科学としての正しさではなくて
共同体的な正しさである
しかし生きてゆくにはそれで充分であるしその方が重要だろう、たぶん
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共同体の価値を認知部分から眺めれば、そのような事情はあるのだろう
また一面で、共同体には身体的感情的な価値・利点がある
感情は主に他者との信号の交換であるから当然共同体的である
身体というものは性的にも労働場面でも実にうまく他者とシンクロするものである
しかしここに背理があり進化の先端をゆくものは常に異端である
誰とも共感できないし
誰をも納得させられないし
誰とセックスしても満足できない
スポーツをしても際立って違うことが分かるだけで何も楽しくない
認知も感情も性もスポーツも同じ程度であることが肝要である
それ以外は苦しむように出来ているのだ
自分の思うことはみんなが思うことなのだと自然に信じられる凡庸な個人こそが
進化の設計の中では最適者なのだろう
平凡であり平均的であることが最適化を実現しているらしい
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そのようにして考えてみると
テレビで話しをする人たちの見事なまでの凡庸さ
さすが選ばれた人たちである
日本にとって1000年に一回の大地震を語るときにもなお平凡に語ることができるという
極限までの技である
この規模の地震が起きたのは、日本の歴史では約1000年前になります、と
だいたい100人中95人がそのように語るであろうと思われるような語り口で語るのである
統計学で言う、有意差なく、取り替え可能な、個体識別要素に乏しい、ありきたりな存在と自己定義しているのである。
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脳が孤立していきいきと動いている場合
ほとんど妄想的である
しかしそれは微笑ましくもある
ドンキーテ的陽気さに満ちている