万葉集巻20-4311 大伴家持
秋風に 今か今かと 紐解きて うら待ち居るに 月傾きぬ
あきかぜに いまかいまかと ひもときて うらまちをるに つきかたぶきぬ
家持が作った、女が「待つこと久し」の歌である。
この歌は七夕の歌らしく、一年に一度しか会えないならば、
「今か今かと 紐解きて」の織女も分からないでもないが、
待たせている牽牛はよくない。
万葉集の当時、愛する男女は、同居していない。夜に男が女の家を訪れる。男は、自分が行かない夜には、女が何をしているのか知ることができない。
万葉の男はおおらかで、人妻に宛てての恋文もたくさん残している。私も他人の妻に恋をするから、他の男も私の妻に恋をしなさいと歌うものさえある。
その一方で、貞操帯のように、別れる時に、お互いの下着の紐を結び合った。次に逢う時まで、その結び目をほどかないのが愛の誓いであった。
そしてこの歌では、女が待ちきれなくて、「自分で紐を解いて」待っていたのに、月も傾いてしまったことだ、というのである。
怪しい。あなたが来てくれないから自分で解いたというのである。嘘をつけというところだ。
ここをあからさまに、あなたが来てくれないから寂しくて、他の男性と、の意味にとってしまってもいいし、万葉の世では多分そうだっただろう。しかし言葉の上では、「紐解きて」とだけ言っていて、さすがに、家持である。分かる人にだけ分かればいいという態度なのだ。「自分で紐を解いた」と言って、あとは俯いていてもいいのである。
貞操の観念の発達は、私有財産制の発達と並行している。
女にすれば自分の子どもであることは確かであるが、
男にすれば、誰の子どもか、確証はない。状況を読むしかない。
その表情、そのたたずまい、微妙な抑揚の中に、真実を読む。
私有財産制よりも、共同財産制の色彩の強い社会では、
誰の子どもかということは、あまり詮索されないだろう。
しても仕方がないし、趣味が悪い。
兄の子であっても、弟の子であっても、一族の子であれば、
同じ敷地の中で平等に育つといった事情もあっただろう。
そんな中でも、やはり独占欲はわいてくるもので、
相手の下着の紐を結んでやる時に、独自の複雑な結び方を考案する。他人には結べない。解いたら、そのことが分かってしまう。そんな結び方を考えては、あちらこちらの女の下着の紐を結んでいたものだろう。
現代では、あからさまな貞操帯がどの程度使用されているか、不明である。
しかし例えば、カルティエには「現代の愛の貞操帯」ともいうべき商品がある。
ブレスレットであるが、専用のドライバーが付属している。解除する時は一人でもできる。しかし、装着する時には、誰かに助けてもらわなければできない。片手では難しいように出来ている。
女が浮気をしたとして、相手の男にドライバーを回してもらうだろうか?そこまで卑屈な男に、女は興味を持続できるだろうか?多分、できない。
多分に心理的な貞操帯である。
だから、女と、浮気相手の男が、非常に程度の低い人間ならば、簡単に装着もできるのだ。その場合は、男としても、諦めがつこうというものだ。恋心も醒める。
一方、女性が男性に対して用いる、心理的貞操帯もカルティエは用意している。例えば、100万円の腕時計がある。一目でカルティエと分かり、値段も分かる。そんなものをつけていたら、新しい女は興ざめである。
女は自分の選んだものを身につけさせたい。腕時計でも、ネクタイでも。
男はカルティエをはずして、他の時計を着用する。そうすると、このカルティエは機械式で、しかも、設計上、すぐに止まってしまう。セイコーやシチズンならば、いつまでも動いてくれるのに、である。そこでオートワインダーを使って、腕につけていない時にも、巻き続けなければならない。それは自宅であってはならず、携帯するのもおかしなもので、職場か、そうでなければ、秘密の場所になる。
そこまでの事情を考えると、この腕時計はかなりやっかいである。
デザインに存在感があり、重量感があるのも、難点といえば難点である。ただ時間を知るためではなく、ステイタスを誇示するためでもなく、ある種の貞操帯なのだ。
そして男は何か理由をつけて、時計の装着を怠るようになる。女は愛の冷却を感じる。
歌に戻る。
今か今かと 紐解きて とはまたなんと愛らしい。自分の女ならば。そして他人の女ならば、なんとあさましい。
うら待ち居るに。この「うら」は、「うら悲し」「うら寂し」などと用いる時の「うら」と通じるものだろう。
家持の歌に「うらうらに 照れる春日に ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもへば」があり、「うらうら」と用いている。
「はるるのに かすみたなびき うらがなし このゆうかげに うぐいすなくも」ここでも「うら」が登場する。
さらに時代はくだり、阿久悠作詞、山本リンダ歌、都倉俊一作曲、「うらら うらら うらうらで うらら うらら うらうらよ……この世は私のためにある」と、「うらら うらら」と歌うものまである。万葉から昭和まで、通底している。
うら待ち居るに とは うらうらして待っていました ということだろう。
こんなことを、職業歌人の家持が歌い、自分で万葉集に採録しているのである。
あなたにつけてもらった
カルティエのリングを自分ではずして
約束を待っていたのに
もう今夜は来ないのね
でもいつでも携帯を鳴らしてね
待っています
というところだろう
最後にもう一度だけ言うが、
わたしを待っているなら、
自分ではずすな!