DNA検査の威力

以下を採録
*****情報の技術インターネットを超えて 日垣隆2事件誘拐殺人事件が起きる前日の夕方も、若い父親は娘を連れてパチンコに興じていた。四歳八ヵ月になる真実ちゃんは、父親から見ても「わんぱくという表現がぴったりの、明るくて活発でおしゃまな子」だった。幼児語も抜け、大人に対する受け答えも明快で、「理由もなく知らない人に誘われてついていくような子ではありません」と母親も断言する。保育園の担任によれば、「とにかくはっきりした活発な子というイメージでした」。JR足利駅と渡良瀬川のほぼ中間にある「ニュー丸の内」と「ロッキー」は、同じ経営者による隣接したパチンコ店で、栃木県足利市はもとより群馬県からの来客も多い。渡良瀬川寄りの駐車場の一角で3前夜八時ころ、ロッキーの女性従業員は真実ちゃんに、「こんな所で遊んでいると変な人に連れていかれちゃうよ。変なおじさんがお菓子をあげるといっても、ついていっちゃあだめだよ」と話しかけ、真実ちゃんは、「絶対ついてなんかいかない」と答えたという(以上は各「調書」による)。だが、事件は翌日の夕刻に起きた。一九九〇(平成二)年五月十二日、土曜日。父親はこの日も午後六時半ころ(検察側はのちに午後五時五十分に訂正)から真実ちゃんを連れて同じ店に入った。真実ちゃんが見当たらないことに父親が気づいたのは八時前後(司法解剖により死亡推定時刻が五月十二日午後七~八時前後と報告されたためか、同じく父親が真実ちゃんの不在に気づいた時刻を午後七時三十分に訂正)、足利署に届け出たのは九時四十五分だった。百人近い捜査員が投入され、警察犬も出動したが、真実ちゃんは見つからなかった。翌朝から捜索を再開。午前十時二十分、河川敷で真実ちゃんの遺体が全裸で発見された。焦燥一週間たっても、犯人に結びつく有力な手がかりは得られなかった。犯行現場が県境であったことから、群馬県警とも協力態勢をとることになった。群馬県の太田市や尾島町にも捜査の網を広げていくことに決まったのは、五月十九日に開かれた警察庁と群馬県警の幹部を交えた合同捜査本部の席上である。泊まり込みが続く捜査本部には、県内各地から激励の手紙や差し入れが間断なく届けられた。足利市の地域婦人連絡協議会は連日、炊き出しをして捜査員を励ました。周辺住民にとって真実ちゃんの事件は、まさに三たびの悪夢を呼び覚ますものだった。十一年前(七4九年八月三日)には当時五歳の万弥ちゃんが行方不明となり、六日後にパンツ一枚でリュックサックに詰められ遺体となって発見された。その遺棄現場も渡良瀬川の河川敷、しかも今回の真実ちゃんが捨てられていた目と鼻の先の対岸だったのだ。それだけではない。五年半前(八四年十一月十七日)にも、足利市内のパチンコ店で両親が出玉に熱中する間に行方不明となった当時五歳の有美ちゃんは、その一年四ヵ月後(八六年三月七日)に白骨死体となって自宅近くの畑から発見されている。有美ちゃんも衣服を脱がされていた。足利市にほど近い群馬県尾島町では、三年前(八七年九月十五日)に小学二年生の朋子ちゃんが行方不明となり、利根川のアシ原で白骨死体となって発見されたのは一年二ヵ月あまりたってからだ(八八年十一月二十七日)。これらはいずれも未解決だった。足利市民が騒然としたのも、また捜査への協力を惜しまず「幼女連続誘拐猥褻殺人事件」の犯人逮捕を熱望したのも、その背後には三件もの未解決の類似事件があった。おおむね共通して絞殺であり、性的犯罪の痕跡があり、目撃証言によれば、十一年前の事件では二十代半ばの男性、三年前の事件では三十代半ばとされていることから、犯人は同一人物なのではないか、もしそうなら今回の真実ちゃん殺しの犯人は四十歳前後になっているのではとの憶測もなされた。焦燥を深める捜査本部が俄然、勢いを取り戻すのは事件発生から一ヵ月後のことだ。B型の男六月十二日の各紙朝刊には「犯人の血液型B型と判明」との見出しがつけられている。これは、栃木5県警察本部刑事部科学捜査研究所(科捜研)技術吏員によって提出された「鑑定書」に基づく報道である。鑑定書によると、川底から発見された真実ちゃんの衣服を精液検査(酸性フォスファターゼ試験)したところ、陽性反応があったのは半袖下着だけで、その背面に希薄な精液が点在して付着し、「その血液型はB型の反応を示した」と明記されている。ただし注意深く鑑定書を読むと、「精液の点在」や「B型の反応」は相当に危うい断定だったことがうかがえる。精液が認められたとされる半袖下着の背面の二ポイントのうち、一点からは「精子の頭部を2個発見(陽性)」、他の一点からも「精子の頭部を1個発見(陽性)」、そして、「弱くB型の反応」を示したと書かれている。普通、一ミリリットルの精液には一億個の精子があるというのに。たとえ黄色いしみが精液斑たったとしても、それが犯人のものと断定できるのか(一昼夜も川底にあった下着から精液斑を採取できたのが本当ならば、父親のパンツと一緒に洗濯すれば精子の二百個や三百個がついていても不思議はない)。犯人は変質者や男性とは限らず、また他人の精液を付着させた可能性さえ否定できない。ともかくこうして捜査本部は犯人像を、「土地勘のある、B型の、ロリコン男」と断定、八班に分かれた捜査員百八十四名は足利市内全域にローラー作戦を展開した。両パチンコ店の常連客千五百人を特定しただけでなく、事件発生当日にパチンコ店にいた約四百人、運動公園にいた約七百人、河川敷にいた約三百五十人、釣りをしていた約二十人のすべてに面接調査を実施。群馬県警の協力も得て、性犯罪前歴者のみならず、周辺のレンタルビデオ店でロリコンものを借りた男性のデータを各店長に「任意提出」させて、約千五百人にアリバイを問いただした。6唾液の任意提出には足利市内の数千名の全男性が応じざるをえず(県警は唾液から血液型を判別する自動検査機を事件直後に千六百万円で購入した)、B型の男はみな疑わしい目で見られ、ましてや一度でもロリコンものに手を出したとなれば窮地に追い込まれる、といった事態も決して冗談ではなかった。鑑定この足利事件には、DNA型鑑定の威力を、マスコミを通じて大蔵省にも認知させるべく警察庁の多大な期待がかかっていた。警察は、後に逮捕される菅家利和容疑者に過去の二事件についても嫌疑をかけ、最新の科学捜査によって逆転満塁ホームランを打つとさえ、事件当時の警察庁刑事局捜査一課長·山本博一氏は講演会で明言した(九一年十二月十八日)。警察庁刑事局長(容疑者逮捕当時)は國松孝次[ 前] 警察庁長官であった。國松刑事局長が、衆議院予算委員会で初めてDNA型鑑定のPRを行うのは九一年五月二十九日のことだ。山本捜査一課長は、事件後(九〇年九月)、栃木県警本部長に栄転して総指揮に当たり、一審の有罪判決時に警察庁鑑識課長だった森喬氏も、九四年七月から栃木県警本部長として控訴審の維持に努めた。警察庁の科学警察研究所(科警研)が、MCT118型という第一染色体上の特定部位に目をつけたDNA型鑑定を実用化するのは九〇年十月。栃木県警がマークした菅家利和さん(当時四十四歳)の尾行を開始するのは翌月からである。ポルノ·ビデオを百本あまり(ただし、ロリコンものはなかった)とダッチワイフを所有し、幼稚園バスの運転手であり、B型であったことから、菅家さんは有力容疑者とされたのだった。二人の尾行者の目的は、幼児への異常な行動を監視するためと、DNA型鑑定に必要な7体液を本人に気づかれることなく入手することである。丸一年間にわたって尾行したが、幼児がらみの不審な行動は皆無だった。ただし尾行開始の半年後に、菅家さんが出したゴミ袋からティッシュペーパー五枚を入手することに成功する。唾液にはDNAが含まれておらず、令状もなしに(たとえあっても)血液採取を強いることはできないから、相手が男の場合には自慰射精した使用済みのティッシュペーパーが、捜査員の標的にされたのである。おちおちティッシュも捨てられぬ世の中になったものだ。ところで、警察庁の科警研が九一年十一月二十五日に作成した鑑定書(これがDNA型鑑定であり菅家さん逮捕の決定打になる)には、なぜか同じ真実ちゃんの半袖下着の、(県警の科捜研が一年半前に行った鑑定書に記された位置とは)ややずれた二ポイントの「斑痕からは、ほぼ完全な形態を示す精子及び精子の頭部が少数認められた」。これを鑑定人は法廷で「一万五百から一万二千個」と証言した。しかし、当時の捜査状況をよく知る関係者によると、科警研は栃木県警からの再三のDNA型鑑定依頼を、付着精液が微量すぎるため鑑定不能との理由で辞退していた経緯があるという。しぶしぶ鑑定を引き受けて(九一年八月二十一日)から(八月二十八日には警察庁が大蔵省にDNA型鑑定機器導入のための初年度の概算要求を行った)三ヵ月もかけて鑑定がゆっくりなされ、この前後に半袖下着に付着していた精子の数が「頭部のみ三個」からいきなり「一万五百から一万二千個」に、なぜか増えたのである(科警研によれば「最初の鑑定時にすぐ精子が見つかれば『頭部のみ二個』というのは別に珍しいことではなく、ありふれた普通の話」だそうです)。身内の研究所の同一鑑定人が、対照すべき二つの資料(ティッシュの精液と半袖下着の精液斑)のD8NA型を同時に鑑定する、というのは、模範解答を最初からマインドコントロールされたようなものだが、しかもあとで裁判所や弁護人が検証できる余地までなくした(半袖下着に付着していた精子を全部使ったうえ、精液斑を焼却してしまった)のだ。とにかく一致さえしてくれれば、全道府県警にDNA型鑑定の特別室と機器が新設され消耗品が恒常的に確保できる絶好のチャンスとなる。これまでにも科学鑑定がらみで、よそから毛髪をもってきたり(大分みどり荘事件では短髪の容疑者から長髪が採取されたことになっていた)、陰毛を入れ替えたり(鹿児島夫婦殺害事件)、しばしば逮捕と公判維持のため警察官にも魔が差すことがある。逮捕さて、科警研の鑑定書によれば、ティッシュと半袖下着の精液斑ともに、ABO式血液型がB型、ルイス式はLe(a-b+ )分泌型、MCT118型についてのDNA型鑑定では16―26型であった、という。のちに科警研はMCT118型に使っていたマーカーを途中で新しいものに変更し、この16―26型との判定を18―30型として修正しているのだが、それは後の祭り。これらを掛け算した確率頻度(千人に五人程度)など、「黒髪で団子鼻で二重まぶた」という程度の組み合わせ頻度(これらもすべてDNAの塩基配列上の問題)と、まったく変わるところはない。けれども、当時はまさにDNA型鑑定といえば葵の御紋であったのだ。「この方法で、判定をまちがう確率は一兆分の一とも言われている」などと報道されたこともあった。さてこうして、科警研がDNA型での「一致」を認めた鑑定書を作成し終えるのは九一年十一月二十9五日である。栃木県警本部は、菅家さんに事情聴取する段取りを十二月一日に設定する。もちろん、地元の新聞社(および全国紙の支局)は知るよしもない。しかし十二月一日(捜査本部が菅家さん宅に向かう当日の朝)には、読売新聞の一面トップに「幼女殺害/容疑者浮かぶ/45歳の元運転手/DNA鑑定で一致」、朝日新聞は社会面トップで「足利市の保育園女児殺し/重要参考人/近く聴取/毛髪の遺伝子ほぼ一致/市内の45歳男性」、毎日新聞は「元運転手、きょうにも聴取/現場に残された資料/DNA鑑定で一致」と大々的に報じた。これを見て驚いたのは、地元の下野新聞と栃木新聞と、完全に抜かれた産経新聞や共同通信その他と、10そして菅家さん宅に向かおうとしていた捜査員であった。警察庁がDNA型鑑定機器導入のために重ねる大蔵折衝が通るかどうかの、まさに瀬戸際であってみれば、十二月一日付全国紙へのリークは実に大きな意味をもった。全国紙を見て百人近い報道陣が詰めかけ、十二月一日の足利署は異様な雰囲気に包まれた。今か今かと待ち構える報道陣を階下に、自白調書の作成が急がれた。橋本文夫警部から菅家さんは肘でなぐられ、髪の毛を引っ張られて「馬鹿面しているな」と罵倒されたという。「なぜ死体にお前の精液があったのだ、本当のことをいえ」と十五時間も繰り返され、おびえきった菅家さんは、深夜には最初の自白調書に捺印した。そうすれば眠らせてくれるという約束だった(菅家さんによる)。翌二日に逮捕。四日にはティッシュを押収した警部補や自白調書を執筆した警部ら八人が県警本部長から表彰されている。二十一日に宇都宮地検は菅家さんを起訴、二十六日にはDNA型鑑定機器導入費用が復活折衝で満額認可された。菅家さんはまた、七九年の万弥ちゃん殺害事件と八四年の有美ちゃん殺害事件も「自供」し、二十四日には万弥ちゃん事件で再逮捕される(万弥ちゃん事件で菅家さんは翌九二年一月十五日に処分保留となり、有美ちゃん事件と合わせて九三年二月二十六日に不起訴となった。あの一連の「自供」はいったい何だったのだろう)。菅家さんが逮捕された当日の朝刊には、「否認突き崩した科学の力」(下野新聞)、「一筋の毛髪決め手」(読売新聞)、「DNA鑑定切り札に」(毎日新聞)、「DNA鑑定が決め手」(産経新聞)、翌日も「スゴ腕DNA鑑定」(朝日新聞)と、絶賛のオンパレードだった。11足利署に連行され「自供」を強いられたその日曜日は、職場の同僚だった保母さんの結婚披露宴に、菅家さんは参列する予定だった。父親はその二週間後に心労のため急逝する。調書十二月一日に作成された調書は、以下のとおりである([]内は判決文や日垣による事後検証などに基づいて補った)。「本件犯行当日、私は、勤め先の旭幼稚園を午後一時すぎに出て、自宅へ戻り昼食後、自転車で渡良瀬川沿いにあるパチンコ店『ニュー丸の内』へ行って遊んだ後[同店に立ち寄った痕跡はなく、目撃者もゼロである]、三、四千円儲けて両替所で現金に替えたが、その時、両替所の近くの駐車場で遊んでいた四歳くらいの赤いスカートに、色は忘れたが短いTシャツのような上着を着た女の子が目についた。その子は非常にかわいい顔をしていたので、『自転車に乗るかい』と声をかけたところ、『乗る』というような返事をしたので、私の自転車の荷台にまたがるようにして乗せ、そこからすぐ近くの渡良瀬川まで乗せて行った[きわめて急な坂道が続くため、ひとりでも自転車をこぎ続けるのは競輪選手でもないかぎり無理だろう]。河原で自転車から女の子を降ろし[そこでは菅家さんをよく知る人たちが野球をしており、にもかかわらず誰も菅家さんを見た者はおらず、そんなところに自転車を止めたら、危ないから未知の人でも絶対に注意したはずだと野球部監督は法廷で証言した]、手をつないで歩いている途中、自然にいたずらするという気分になり、騒がれては困るという気持ちから、女の子の首に手を掛け、うつ伏せの状態に12して、両手で首を絞めて殺してしまった[発見直後に撮影された写真を見ると、鼻腔や口腔から泡沫液が流出し、しかも被害者の目や鼻には砂が詰まっており、溺死を強いた可能性が強いが、捜査段階や一審はその可能性をまったく問題にしていない]。殺した場所は、渡良瀬川の北側の河原で、私の背丈くらいある雑草が茂っていた[この場所に初めて行ったのは現場検証のときだと、菅家さん本人はいう。五月の午後七時半といえば真っ暗なため懐中電灯なしでアシの茂った河原を自在に歩くことは無理であり、まして犯行の全行程を三十分でやったと見なすのは、しんどい。現場周辺での目撃者もゼロであることから、誘拐は自転車ではなく車による拉致であり、殺害現場は別に存在し、死体は深夜に遺棄されたものと考えるのが妥当であろう]。その場所から一〇メートル位岩井橋の方へ[のちに百メートルに訂正される]、女の子を抱きかかえて、雑草の生い茂った場所に移動し[なぜわざわざ移動する必要があったのだろう、鬱蒼と茂ったアシの茂みの暗やみの中を]、女の子が履いていたスカートと上着、運動靴、パンツなどを脱がせて裸にし[真実ちゃんはパンツを二枚重ねで履いていたのだが、そのことは橋本警部も知らなかった模様である]、そこで自分の陰部を出して自慰行為をして精液を出した。精液が、女の子の両足の下の方にかかったと思うがはっきり憶えていない[死体からも地面からも精液はまったく検出されなかった]。女の子のスカートなどについては、その付近に捨てたように思うが、後でよく思い出してお話しする。女の子を全裸で仰向けにして、そのまま逃げて自転車で福居町に借りている借家に行った[現場検証で菅家さんは死体遺棄現場を指定できずに警察官が場所を教え、警察官に倣って指差した瞬間、カメラのシャッターが押された]。真実ちゃんを誘い出した時間は、午後六時過ぎころだったと記憶している。13詳しいことは後にお話をする」逮捕翌日(十二月三日)の菅家容疑者の調書は、さらに詳細に作成された。「[前略]女の子の手を引いて歩いているとき、ムラムラしてしまい勃起した。気持ちがよくなり、小便をしたくなったので、コンクリートの道路から南に向かって小便をした時、女の子がかわいい顔をしていたので[午後七時で真っ暗なはずだが]、気持ちがムラムラとしてしまい、女の子を殺していたずらしようと考えた。そのいたずらは、殺した後、裸にして陰部や体をなめたり、陰部の中に指を入れたりしてオナニーしようと思った[中略、死後]丸裸にした女の子を抱いて、私の口を女の子の口や頬っぺた、額、おっぱいなどにくっつけてなめた[後略、この後に延々と凌辱のデータが続く]」事件の翌日に行われた司法解剖による鑑定結果で「同女の、頚部、腹部、陰部、左大腿部等に、唾液の付着が認められた」とあり、捜査官はそれを踏まえたのだろう。ただし、このくだりは何も、取り調べの密室で暴力的に強要されたものでは必ずしもない。いったん、「DNAという科学の力でお前の犯行は百パーセント」と断言され、「知能が薄弱境界域にあり小心で迎合的」(冒頭陳述)な菅家さんは「オナニーはどうやってやってるんだ?」とか、「エッチなビデオでどんなやりかたを覚えたんだ?」という質問に対して、正直に一生懸命答えたにすぎない、という構図が浮かび上がる。誘導検事による調書は、たとえば以下の質疑応答の結果、作成された。問「『自転車に乗るかい』と声をかける前に、君は何か言わなかったか」14答「……」問「『何しているの』とか『どうしたの』とか言葉を掛けなかったか」答「掛けたかもしれません」問「では、それに対し、真実ちゃんは何と答えたのか」答「……」問「覚えていないのか」答「はい」問「何か返事をしたことは間違いないのか」答「……。よく覚えていませんが、そんな気もします」問「そのあと『自転車に乗るかい』と声を掛けたのか」答「……。はい」問「その頃はだいぶ暗かったのだが、真実ちゃんは何か言わなかったか」答「……。『もう暗いね』とか言ったかもしれません」問「(よく覚えていないのは)真実ちゃんにいたずらしたいという気持ちが高ぶっていたためもあるのか」答「……。はい」問「人に見られずに真実ちゃんを殺して、いたずらする場所をさがしていたためでもあるのか」答「はい」15一審では、実兄が五十万円で依頼した梅澤錦治弁護士(奥澤利夫弁護士に応援を頼んだので二十五万円ずつが報酬のすべて)は、たとえば次のような質問を発している。問「この事件だって、えらいおかしな事件でしょう。小さな子ども殺して、いたずらしているというんだからね。あなた、正直言って、死んだ子をなめたり何かしたんだろう」答「……」問「検事の調書にはそう書いてあるよ」答「……」今でも梅澤弁護士は、菅家さんが「やった」と思っている。ただし、「拘置所の面会でも『やったのか、やらないのか、やったんだな』と聞いたら、コクリとうなずいた。だが今にして思えばあのとき、『やっていないんだな』と聞いてあげていれば、ハイとうなずいたかもしれない」という。菅家さんが法廷で犯行を否認すると、梅澤弁護士は、「信頼関係を崩された気分だ。今後も否認を続けるなら、辞任もありうる」と公判後の記者会見で語っている。菅家さんは、否認したことを詫びた。だがすぐに、菅家さんは弁護士に直訴する。「[前略]梅沢先生どうか私を助けて下さい判決も近いのにごめんなさいだけどもう殺っていないのに殺ったといえません梅沢先生すいません[後略、あとは当日のアリバイが詳細に書かれ、のちに控訴審の弁護団によって裏付けがとられてゆく]」こうして被告人が否認したのに、「やった」ことを前提に弁護するという希有な裁判がそのまま結審し、無期懲役の判決が下されたのだった。16菅家さんは逮捕以降、家族にあてて一貫して無実を訴え続けていた。「[前略]俺は事件などおこしていませんDNA鑑定はちがっていますもう一度しらべてもらいたいものです無実の人間が犯人にされてはたまらないですまったくとんでもない事ですそれから親父が亡くなって一年だと思いますがたしか命日が十二月十五日だと思いますが俺は親父の死に目にあえなかった本当に残念でなりません俺は親不孝をしてしまったでも事件の事は無実です昨年の十二月一日調べをうけている時顔を上げろといわれて頭の毛をひっぱられましたそして馬鹿面してるなと刑事にいわれました俺はくやしかった本当にくやしかったくやしくてもどうする事もできませんでした警察の調べはごういんですやっていない事でもやったと言うまでしつこくていやでした[後略]」別の手紙で、菅家さんはこう書いている。「私は罪をおかしていないのに犯人にされました。だからDNA鑑定はおかしいのです」。「俺は犯人がにくい、真犯人をぜったいゆるさない」とも書いた。このような手紙に対して、検事は論告で、「無残にも殺害された被害者へのいたわりやその家族への思いやりがまったく表明されていない。……自己のことしか考えない……真摯な反省も認められない」と非難した。宇都宮地裁の久保眞人判事は、「大事件を起こしたとして肉親からの面会もなく寂しかったことから、見捨てられるのを恐れ、[家族に]無実を訴えた可能性が高い」と判決文で断じた。最高裁へ東京拘置所で菅家さんはいう。「取り調べの橋本警部さんが法廷でも後ろに座っているのではないかと怖かったんです。弁護士さんに17は、兄が頼んでくれて世話になっているのに逆らえません。遠山の金さんみたいに裁判官が、すべてお見通しで最後に私の無実を晴らしてくださると思ってましたけど、違いました。だから、すぐに自分で控訴しました」控訴届の理由欄には、菅家さんの字で「無実」とだけ書かれている。控訴審では、資金切れのため国選弁護人がつくことになった。が、やる気のない、というより、本人が無実を訴えているのにそれを重大事と認識できないその国選弁護人と電話で話していて、ついカッとなった佐藤博史弁護士は無料の私選弁護人を買ってでる。佐藤弁護士は、DNA型鑑定に最も造詣の深い法曹人のひとりだった。手弁当で弁護団を結成し、まず控訴趣意書だけで四百八十五ページ、弁論は五百八十ページ(四百字詰め原稿用紙にして二千三百二十枚)を書き上げた。「DNAが証明していると断定され、新聞でも大々的に報道されてしまい、だれも味方をしてくれなかったら、どんなひとだって自白の一つくらい迎合的にしてしまいます。そんな状況に陥った被告を、裁判所でもみんなが寄ってたかっていじめたという構図です」DNAの前に法曹関係者がひれ伏してしまったのであってみれば、その構図を指弾するだけでなく、検察側を凌駕する専門性と常識(批判精神)が弁護側には必要だ。それほど遠くない将来、ヒトDNAの全情報が解読された暁には、ヒトに共通する塩基配列以外の、つまり個人によって異なる塩基配列もすべて特定される。もし指紋鑑定のように「DNA鑑定」による個人特定が可能になれば、憎むべき性的凶悪犯罪の解明にも決定的な証拠として採用されうるだろう。しかし現状は、ある染色体のごく一部の塩基配列のパターンを比較するにすぎず、あくまでDNA18「型」鑑定でしかない。血液型鑑定を精緻化したにすぎない現状のDNA型鑑定に、ある人物が「犯人でない」ことを証明すること以上の役割を担わせるべきではないのである。しかも弁護側が事後検証をできず、警察だけが鑑定を独占するようなシステムは時代錯誤というべきであろう。個人特定が可能とされる指紋鑑定では十二ヵ所の厳格な一致が必要なのであり、たとえ十一ヵ所が一致しても他の一ヵ所が不明であれば「一致せず」と報告される。そのような厳格さは、現状のDNA型鑑定に欠如している。だが、DNA型鑑定=葵の御紋との暗示にかかってしまった東京高等裁判所第四刑事部の三人の判事は、九六年五月九日、多くの疑問点を一蹴して原審を全面的に支持、控訴棄却の判決を下した。三人の判事は公判途中から判決に至るまで、一審の宇都宮地裁で無期判決を下した久保眞人判事と、東京高裁第四刑事部の新しい同僚として席を並べていた。判決文朗読の直後、「何かいいたいことは」と判事に問われた菅家さんは、手をあげて、「私はやっていません。はっきりいえます」と声をふるわせた。こうして徹底検証の場は最高裁に移された。彼は自分で、上告の手続きを済ませたのだ。*私が初めて菅家さんを東京拘置所に訪ねた日に偶然、驚愕すべき報道がありました。「群馬県太田市のパチンコ店で七日昼、……ゆかりちゃん(四つ)が行方不明になった事件で、ゆかりちゃんは不明になる直前、母親の光子さん(三〇)の所に来て『いいおじさんがいるよ』と話していた……。ゆかりちゃんは帽子をかぶった男性と並ぶように座っていた……」(『読売新聞』九六年七月十一日)。ゆかりちゃんは現在もなお行方不明のまま、公開捜査が行われています。これが一帯での五件目の事件にならないことを祈るしかありません。「九六年八月」
*****足利事件は国策捜査だった当時、菅谷元受刑者の捜査を極秘に進めていた県警は、地元メディアに一切悟られることなく逮捕準備を進めていたのに、なぜか中央の警察庁から捜査情報が複数の全国紙にリークされる。それをリークしたのは、当時、警察庁刑事局捜査一課長・山本博一、警察庁刑事局長・國松孝次の二人です。  警察庁は、当時導入を計画していたDNA分析機の予算要求を大蔵省に要求して一度拒否されていた。彼らは、DNA検査の威力を国民に認知させるための大きな事件を欲していた。<略> これはまさに、国策捜査でした。刑事事件に於ける国策捜査です。でもその時リークして貰ったマスゴミさんは、国松さんの所にコメントを取りに行くようなことはしないでしょう。あるいは、天下り法人のトップを務める山本博一氏の責任を問うて辞めさせるようなことはしないでしょう。彼らは同じギルドの仲間だからです。(せめてあの時、捜査情報をリークして貰った記者は名乗り出るべきだろうが、たぶんそれもしないだろう)  マスゴミは逮捕を急がせた。文系バカの特徴で、DNAという聞き慣れない科学用語が出て来た途端に思考停止に陥った。しかし、日本警察が大事件で証拠のでっち上げを躊躇わない組織であることは、駆け出しのサツ周り記者ですら知っていなければならないことです。仮に今日、何かの事件が起こり、DNAが一致したという警察情報があったとしても、それが真に容疑者のものかどうかは全く別の問題であることを記者は疑って掛かる必要がある。 彼らは裁判までフォローしたはずなのに、この事態を許した、せめて一審が終わった後に、まともな弁護団が結成されるべきだったのに、そのチャンスも逸した。この国策捜査に加担したマスゴミの罪は重い。http://eiji.txt-nifty.com/diary/2009/06/post-217e.html