もっと笑顔を…と強制される日本はいいのか悪いのか

もっと笑顔を…と強制される日本はいいのか悪いのか――フィナンシャル・タイムズ

2009年7月30日(木)17:40

(フィナンシャル・タイムズ 2009年7月19日初出 翻訳gooニュース) ルーシー・ケラウェイ

働く日本をさらに管理する、新手の手段が登場したそうだ。きちんとニッコリ笑っているかどうか、コンピューターが「笑顔度」をチェックしているのだとか。東京15カ所の駅で、職員が毎日コンピューターに向かって歯を剥き出して笑うと、コンピューターがそれをスキャンして口の曲がり具合を測り、1から100まで採点するのだそうだ。しっかりはっきりニコッと笑えない職員には、もっとはっきりした笑顔の作り方をコンピューターが指導してくれるとか。口角をもっと上げなさい、と。そうやって作った理想の笑顔を職員はプリントアウトして、今後の参考にするのだそうだ。

東洋発のこの笑顔強制について読んだ同じ日、変な偶然だが、西洋からも「笑顔の薦め」的なメールを受け取った。日本の駅ほど強制的ではないものの、「みなさん、どうぞ笑顔を」と非常に熱心に勧める熱意は同じくらいだった。米バージニア州リッチモンドを本拠地とする「Smile and Move(笑って活動して)」というこの運動は、フェースブックからTwitter、マグカップのスローガンや啓蒙書やポスターやビデオなどあらゆる手段を使って、「笑って!」とやたらめったら呼びかけている。YouTubeには、もっと笑ってもっと笑ってと私たちを洗脳しようとする3分ビデオが掲載されていて、コメント欄には「最高です! がんばって!」などそういう手合いのコメントがたくさん。その日の午後、私は自転車で歯医者に行き、待合室でタイムズ紙を手にとったのだが、目玉の特集記事では、もっと素敵な笑顔を作るため鉛筆を噛み締めている生活アドバイザーの写真が載っていた。

これはいったい何事? 私は訳が分からなかった。私たちはそんなにもっと笑わなくてはならないとでも?

そんなのとんでもない——というのが、大方のイギリス人の意見だ。BBCはウエブサイトでこのほど、接客業にもっと笑顔が必要かとアンケートをとったのだが、回答のほとんどは「ノー」だった。とはいえ、答えた人たちは別に笑顔そのものが要らないと言っているのではなく、マニュアル通りの作り笑いは要らないと言っていたのだ。回答した男性のひとりは、自分に向かって意味もなく笑いかけてくる奴がいたら、殴り飛ばしてやりたい、とまで。からっぽな笑顔は不気味で、ロボットみたいだというのが、大方の合致した意見だった。つまり、作り笑いは、無表情よりもよろしくないと。

私は相当にイギリス人気質の人間だが、こと笑顔に関しては日本人やアメリカ人に賛成だ。接客業の人はもっとニコニコするべきだと思う。というか、愛想良くふるまって欲しいものを手にしたいと思うなら、もっとニコニコするべきだ。作り笑いが良くないなど、私はそうは思わない。むしろそれは、良い社員であることの条件のひとつだ。

笑顔というのは、ふっと自然にわき上がる喜びの表現ではない。笑顔というのは、処世術なのだ。これを証明する実に面白い実験が、ボーリング場で行われたことがある。ストライクを決めた人は、ピンがバタバタッと全部倒れるのを見て破顔したわけではなく、ストライクを決めた人は、後ろの友人たちにくるりと振り向く時に初めて、満面の笑みを浮かべていたのだ。

私たちは、相手に何かを伝えるためにニッコリ笑う。たとえばサルを2匹いっしょのケージに入れると、最初はピリピリ緊張しているものだ。ちょっとでも不意に動けば、壮絶なつかみ合いのケンカに発展してしまうのだし。なので、同じオリに入れられたサル同士はひとしきり床をじっとにらんだ後、片方が歯をむき出して、相手に攻撃するつもりはないと伝える。もしも相手も歯をむき出しにして返せば、2匹はたちまち互いの毛繕いを始める。

人間同士でも、笑顔は同じような仕組みで使われている。たとえば店員がニコッと笑いかけてくれれば、ホッと安心するし、次にくるのがさすがに毛づくろいではなくても、少なくともこれからモノの売り買いをしましょうという合図にはなる。

歯医
者の待合室というケージで座っていた間、ほかに患者が2人、入ってきた。ひとりは私と目を合わせてニコッと笑い、もう1人は椅子に直進して座り、目を合わせようとしなかった。もしもどちらかとケンカをしなくてはならないとなったら、どっちにつかみかかっていくかは明らかだった。

ニコッと笑うのがそもそも上手な人とそもそも苦手な人というのはいるので、問題はそもそも苦手な人にもっと笑ってもらうにはどうしたらいいかだ。日本方式がまずいのは、それがいかにも管理主義的でビッグブラザー的だからではなく、大きい笑顔はいい笑顔だという間違った思い込みがあるからだ。私は先週、ロンドンのソーホーに新しくできたおしゃれなイタリアンの店でお昼を食べていたのだが、そこでお茶を入れてくれたマーロン・ブランドのそっくりさんは途中までずっと無表情。けれども最後の最後に、口の端をほんのかすかに持ち上げてくれた、そのありがたさといったら。その場で全裸になってくれたとしても、あれほどの効果はなかったはずだ。

鉛筆を横に噛みしめてステキな笑顔を作ろうというのも、さらに悪い。うちの夫はしょちゅうペンをくわえて家の中をウロウロしているが、それは別に口角を上げて笑顔のカーブをはっきりさせたいからではなく、使っていないペンを保管するのが夫の場合は口だというだけの話。夫のその姿を見るたびに私はすごくイライラするので、よくペンを奪おうとするのだが、そうすると夫はギュッと顎に力を入れてさらにペンを噛みしめてしまう。引っ張ったりギュッとかんだりのもみ合いの果て、誰もにこやかに笑ったりしていない。

笑うべきか笑わざるべきか。歯医者の治療が終わったとき、私はハッと思い当たった。答えは、きれいな歯だ。歯がきれいな方が、にっこり笑いやすい。私は最近、決して少なくないかなりの額を歯の美白に使ったのだが、期待したほどの効果はなかったとは言え、投資した分をできるだけ取り戻そうと、前よりずっと頻繁に笑うようになった。

科学者が「笑顔に関係する人生の価値(QOL)」と呼ぶものと、人の歯の状態とは、相当に統計的な関連性がある。入れ歯だったり歯が欠けていたり、歯茎が目立つ人は、めったに笑わないものだという調査結果も見つけた。

前述のBBCアンケートでも、実に悲しいコメントを見つけてしまった。前歯のクラウン(被せもの)を交換しなくてはいけないのにその費用が工面できないという元数学教師が、「私の笑顔と歯並びは、私が良い教師でいるための大事な条件。なので今の私はまるで引きこもりの世捨て人のようなもの。役に立たないクズのようなものです」と書いていたのだ。

この数学教師とは対照的に、ゴードン・ブラウン首相は歯を治すだけの経済力があり、おかげでしょっちゅう笑うようになった。なので彼は次のステップとして、「笑い方上級編」を習得してもいいころだ。上級編とはつまり、笑うべきでない時には笑わないという、判断力の問題なのだが。