般若心経の有名な一節である。
世間での生活と小さな庵での悟りの生活を対比して考えることができる。
世俗の中で生きることは空である。
小さな庵で認識の生活をし、悟りの境地を忘れないでいたほうがいい。
悟りの境地に至れば、今度は、空であるという悟りの境地のままで世間で生きられるようになる。
そのように、世俗の生活はそのままで悟りであり、悟りはそままま世俗の生活である。
色と空の運動を世間生活と悟りとの間の運動としてみて、両者は一致するのだと見る立場。
このような解釈も好きだ。
所詮人は世俗の中に生きるしかない。
たとえ修道院にいても、そこは一つの世俗である。
しかしまた、世俗の中にいても、人は直接に神と結びつくことができる。
そして神と直接結合したままで世俗の生活が可能なのである。
こうなると色即是空も違った展開になる。
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色とは、様々な色、香り、音、肌触り、味、により立ち現れる外界である。
そうした、一見固く確固としたように見える外界は、
実は人間の感覚と記憶と理論によって矛盾なく構成された仮の世界に過ぎない。
私の目の前に机があるが、
これは目には単なる電磁波の束でしかない。
触ればこの程度の反発をもたらすもの。
匂いは特にない。味を確かめることはなく、そのような対象ではない。
それだけのもので、群盲が像を撫でるが如きである。
本質に到達することは難しい。
そのような仮の世界で怒り、悲しみ、嫉妬に狂い、何という無駄な事をしていることだろう。
すべては内容のない、ただの感覚の集まりなのだと知ることである。
現実は空だと知れば、
しかしこの世界には生きる手がかりがあると知る。
空である世界でいかに生きるか考えたとして、それは慈悲の実践しかないのかも知れない。
そのような解釈でもいいかも知れない。
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色とは外部世界である。
空とは人間の脳の内部の世界モデルである。
外部世界は脳内の世界モデルとしてしか認識し得ない。
逆に、人間にとって、脳内の世界モデルは、そのまま外部世界そのものである。
五感と記憶と論理の範囲ではそうなる。
超越の軸を導入すれば、ものそのものへのアプローチは可能になるが、
そのような超越は仏教では肯定しない。
認識の限界点が外部世界の限界点であり、
人間はそれを知るだけで充分であり、
あとは慈悲に生きれば足りる。