勝間は、香山リカからは『しがみつかない生き方―「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』で、次々に出す自己啓発関連書を批判されている(帯に「〈勝間和代〉を目指さない。」と書かれている他、最終章が勝間批判に当てられている)。
勝間は、大学に在学中の21歳で出産し3女の母であるが、長女は現在父親と暮らしている。2回の離婚を経験し、現在は独身。
ーーー「恋愛にすべてを捧げない」、「自慢・自己PRをしない」、「すぐに白黒つけない」、「老・病・死で落ち込まない」、「すぐに水に流さない」、「仕事に夢をもとめない」、「子どもにしがみつかない」、『「いたかもしれないはずの子ども」に執着しない』「子どもを持つ女性がいちばん有利な時代」「お金にしがみつかない」、「生まれた意味を問わない」、「<勝間和代>を目指さない」という10のルール
見て分かるのは、非常にネガティブなメッセージであるということだ。~~しない、という形式をとっているところなぞ、~~せよ、とばかりいう現代の自己啓発本のパロディのようである。
。頑張っている既婚女性は多いです。でも、お子さんが急に病気になったときや学校行事で休むときなど、独身&子ども無しの私たちがフォローすることが多いんです。働くお母さんを評価する一方で、彼女たちを支える私たち独女も、もっと評価して欲しいなあと思うんですよね。でも、この気持ち職場では言えませんね
最近の就職面接の自慢競争にクギを差している。普通の人間に自己プレゼン能力が問われるようになったのはいつからだろう。
”パンのために働く”ことで納得できない現代人の病理を突く。「夢」を仕事に出来る人が何人いるのかと問う。
”がんばれば夢はかなうのか”という非常にシンプルな問いかけ
笑顔で誰かに、「がんばれば夢はかなうんですよ」と言われる。それに対して、こちらは真剣に「いや、がんばれない人、がんばっても夢がかなわない人もいるんです」と反論する。すると相手は、うなずきながら私の話を聞いた後で、また笑顔でこう言うのだ。「努力さえすればどんな夢でもかなうんです」
「努力すれば夢はかなう」というのは、裏返せば、「夢がかなわないのは努力が足りないのだ」ということになってしまう。
統一協会を脱会したことのある人が、アムウェイの集会に連れて行かれて、統一協会とほぼ同じことやってるのを見て仰天した。過去の記憶がフラッシュバック。アムウェイがテキストに使っていたのが、カーネギーの本
ーーーーどうしても思ったとおりにいかないんです
あなたの能力、適性、環境から考えると、今くらいでせいぜいだわね。
いや、それじゃ、私は嫌なんです。
というわれで、次の場所で相談する。
大丈夫ですよ、あなたは素晴らしいものを持っています、努力さえすればあなたは成功をつかみます、ただ、ちょっとアドバイスがあります。××○。
というわけで、さらに困難な人生にはまりこむ。
ーーーーーこういうのもありますと紹介されたが長いので驚く。採録。読む必要はないです。
香山リカ『しがみつかない生き方』:恋愛・自慢・他者否定・老化と生きる意味の相関
『標準的な幸福像・幸せ観』のイメージや定義が先行することによって、そのイメージからズレた自分を否定的に評価してしまったり、その定義から外れた自分の人生を不幸なもの(無意味でつまらないもの)だったのだと決め付けてしまうことは少なくない。こういった『不幸の自己規定性の罠』から脱するための一つの方法が、本書が示す『しがみつかない生き方』であり、論理療法的には『イラショナル・ビリーフ(非合理的な思考)を持たない生き方』でもある。
著者の香山リカは、『ふつうの幸せ』を手に入れる10のルールとして、恋愛・お金・仕事・成功・若さなど『しがみつくべきではないもの・柔軟で自由な価値判断をすべきもの』を、10の章に分類して解説している。
『しがみつかない生き方』というのは、理想的な自己イメージや世間一般の評価・偏見、他者から自分がどう見られているかということにしがみつかない生き方のことであり、『最低限度の生きる条件』を満たしたのであれば、後は自分で幸福と不幸の判断基準を柔軟に設定していったほうが気軽にそれなりに幸せな人生を生きられるということでもある。
逆に言えば、雇用・所得・意欲・健康・人間関係などの面で『最低限度の生きる条件』が満たされていない場合には、政策的な支援や社会的な援助、対人的なケア、環境調整などが必要になってくると思うし、現実問題として社会には個人の意志・努力・認知(心の持ち方)だけでは解決できない困難や苦しみも多い。しがみつかない生き方を勧める10個の章について、自分なりの簡単な感想や解釈を書き残しておきたい。
第1章 恋愛にすべてを捧げない
『恋愛』は現代に残された数少ない共通価値の一つであり、映画・ドラマ・漫画・小説・テレビCM・若者向けの商品(ファッション)の多くが『恋愛(異性に好かれること・特別な存在として愛されること)』をテーマにしている。恋愛こそが真の幸福をもたらすものだという『恋愛至上主義』は、資本主義経済やマーケティングとも深く関わっており、『異性に好かれなければ不幸・恋愛のできない人生はつまらない』という強迫的な不安感(孤独感)によって売上を伸ばしている商品市場は少なくない。
恋愛をすることによって不幸になる人というのは、『恋愛以外の価値・意義』を見出せずに『恋愛が上手くいっていれば幸福―恋愛が上手くいかなければ不幸』という二元論的な価値判断に容易に支配されてしまう人である。端的には、『恋愛依存症・セックス依存症』といった対人依存が深まっている状況では、慢性的な孤独感や空虚感、寂しさに襲われ続けて、絶えず異性から愛情の籠もった言葉や抱擁、肯定、セックスを与えられていないと、自分自身で自分の自我や存在根拠を支えられなくなってしまうのである。
『恋愛・恋人の有無』と『自分の生きる意味・人生の価値』を直結させて、それ以外の価値判断のモノサシを失ってしまうと、『恋愛のため(異性に愛されるため)』だけに勉強したり仕事をしたり趣味をしたりといった硬直的な行動様式になってしまい、恋愛がダメになってしまうと仕事や勉強をする意味までも同時に失って絶望してしまう。執着的な愛憎が深まり過ぎて思い詰めたりすれば、ストーカーや傷害事件、抑うつ性の精神病理にまで発展してしまうこともあり、『不幸・孤独の自覚を強める恋愛(思い通りにならない他者)』にしがみつくことはマイナスの影響が大きくなる。
確かに恋愛は、自分自身が『特別な存在・交換不可能な異性』として承認される特別な関係性であり、人間の孤独感を癒して自己肯定感を高める効果を持っているが、恋愛の成否や恋人の有無だけに『自分の存在意義・人生の価値』を求めてしまうと、偶発的な失恋や別離に耐えることすらできない脆弱なメンタリティになってしまう危険性が高い。
恋愛や結婚、異性関係のプライオリティが高くなってしまうことには、生物学的・心理社会的な根拠も多くあるので、ある程度の『恋愛(異性)への依存性』は誰にでもあるはずだ。しかし、『恋愛・結婚・異性関係だけが全て(それ以外のことは重要ではない)』という価値観にまでいくと、精神的に不安定になりやすく異性との付き合いが上手くいかない時には、『自分は不幸である(自分の人生を楽しみようがない)』という自己認知に陥ってしまう。
第2章 自慢・自己PRをしない
日本人から『謙譲・謙遜の美徳』が失われて、自分の長所や能力・実績を自慢のようにアピールする人が実際に増えたのかどうかまでは分からないが、学生の就職活動(新卒採用面接)では自分の性格や活動実績、能力、貢献意識などについての『自己PR・自己アピール・自己主張』が求められることが増えている。
就職転職のための一時的な自己アピールや自己PRに特段の問題があるとは思えないが、行き過ぎた『競争原理・利己主義・成果主義』への過剰適応は、人間から他者と協力したり弱い相手を思いやったりする動機づけを失わせて、自分がいつ競争に負けるか分からないという不安を煽り続ける。
『協力する味方(信頼できる味方)』と認識できる他者が減って、『競争する敵・(信頼できない相手)』と認識するしかない他者が増えると、必然的に職場の人間関係や労働環境も悪化しやすくなる。会社に対して自分はあの人よりも雇われる価値がある人間だと自己アピールし続けなければならない状況は好ましくないし、『同僚(他者)との協力関係・信頼感情』が生まれにくくなって仕事の充実感や職場の働きやすさが低下しやすくなる。
同僚と協調できないような『個人単位の競争原理』を厳しく働かせ過ぎると、情報やノウハウの共有が上手くいかなくなったり職場の人間関係に不満が多くなったりして、会社全体の業績や生産効率も落ち込みやすくなる。『自慢による自己承認』は、他者からの共感や援助を受けにくくするため、結果として孤独感や疎外感も生まれやすくなり普通の幸福感からは遠ざかってしまう。
マスメディアが賞賛するセレブや成功者に憧れて『ド派手な消費行動・享楽的なライフスタイル』などの自慢・自己顕示に走ったりすることで幸せになれるかというと、一時的な虚栄心は満たされても継続的な人間関係の幸せを得ることは難しいかもしれない。
第3章 すぐに白黒つけない
現代社会の白か黒かを瞬間的に判断する『二分法思考』や敗者、間違いを犯した人に対する『不寛容性・狭量性』を批判しているが、他人の欠点・失敗に対して厳しくて狭量になり過ぎるのは『他人を信用していないこと(他人も自分を助けてくれないだろうこと)』の裏返しでもある。
『自分の現状・人生の選択』を自己肯定するために、異質な他者にネガティブなレッテルを貼ったり、自分とは違う生き方をしている他人を手厳しくバッシングしたりする。自己責任原理の過剰は『自分の行動・選択の結果は自分で責任を取る』ということだが、『誰も自分を助けてくれないし自分も他人を助けるつもりはない』という排他的・自閉的な人間観を意味している部分もある。
本書では2004年の『イラク日本人人質事件』が例に出されているが、誰かが失敗したり間違いを犯したり貧困に陥ったりすれば、『あの時にああいった選択をしたのだから自業自得だ・みんながする選択とは違う選択をしたのだから自己責任だ』という非難(バッシング)を受けて何の支援も得られない恐れが高まっている。そういった異質性や間違った選択を排除する『不寛容な二分法思考』によって、若年層であっても長期的スパンで見た無難な選択をせざるを得なくなる。
更に、自分が切り捨てられないようにする自己防衛やリスク管理によって、自分とは異なる選択をした他者(異質な他者)への想像力が衰えてしまい、『社会的なコミュニティ性・連帯感』が無くなってしまうことも問題だろう。短期的・反射的に他人の行動を見て、正しいか間違っているか標準的か否かを二分法で判断するのではなく、ひとりひとりの人間の信念や内面、考え方に寄り添うことで、『人間関係・他者理解の豊かさ』は増していくのではないかと思う。自分と正反対の行動や人生、価値観を生きている人は、自分の認めたくない『影(シャドウ)』の元型の現れでもあるので、それを寛容に受け容れることはなかなか難しいが。
第4章 老・病・死で落ち込まない
テレビでは女性のF1層(20~34歳)をターゲットにしたバラエティ番組が多く高齢者向けの番組は少ない、後期高齢者医療制度では医療費負担が上がり、介護保険制度では介護老人福祉施設(自己負担額が有料老人ホームよりも低い特養老人ホーム)が不足して入所できないなど、高齢者が自分が社会・家族から必要とされていない、自分の居場所がないと落ち込む状況は多くなっている。
公的年金・高齢者福祉など社会保障制度の『世代間格差』は大きく、若者ほど負担が大きくて給付が少ない賦課方式の不公正さが高齢化社会の重要な問題点として上げられるようになっている。また、日本の金融資産の大半を保有しているのは60代以上の高齢者であり、若者は殆ど金融資産を持っていない。それでも、幾らお金を持っていて制度的な保障があっても、『老化(老い)』を不幸と感じる価値観は強固にあり、アンチエイジング市場の拡大など『若さ』を求める欲望はかつてよりも大きくなっているようだ。
仏教の開祖である釈迦は、四苦として『生・老・病・死』を上げたが、これらは現世に産まれて来た私たちにとって不可避なものであり、いつか直面しなければならない揺らがない現実でもある。若い頃から老後・年金のことばかりを心配するような生き方も、若い時期にしか楽しめないことを放棄するという意味である種の不幸ではあるが、高齢になってから『老いの現実』を認められずに苦悩したり絶望するというのも不幸である。
年齢・発達段階に応じた柔軟な自己定義や現実状況の肯定的受容をしていけることが、『普通の幸せ』につながるし、病気になったり老いたり死んだりする時には家族・他人に『多少の面倒・手間』を掛けてしまうことは致し方ないことでもある。現代における理想の死に際は、誰にも迷惑を掛けずに綺麗にこの世を去る、死ぬ前に準備万端施して何の問題も起こらないようにするということでもあるが、自分の死を惜しんでくれたり気に掛けてくれる人がいるならば、そういった他者の恩義・手伝いに多少は甘えても良いのではないかと思う。
第5章 すぐに水に流さない
水に流して綺麗さっぱり忘れたほうが良い『個人的なネガティブな記憶』と、簡単に水に流すべきではなくその問題点(反省点)をしっかり検証して今後に役立てたほうが良い『政治的・歴史的なマイナスの事象(失敗事例)』とを区別しようという提案。
楽しかった記憶や幸せだった時期、嬉しかった出来事などについてはすぐに忘れてしまうのに、不快で苦痛な記憶や不幸だった時期、傷つけられた出来事についてはいつまでも忘れることができないという『不幸を強める認知傾向』を修正することは大切である。
第6章 仕事に夢を求めない
人は何のために働くのかという疑問に対して、『パン(生活費)以外の働く理由』が分からなくても全く問題がないと答える。それほど好きではない仕事でも、とりあえず何とか働いているうちに、仕事そのものの面白さ・興味関心がでてきたり、仕事以外での消費・趣味・人間関係などが生まれてくることも多い。
今、一生懸命に働いていて仕事が面白い(人間は働かなければならない)と言っている人でも、棚ボタで数億円の大金が転がり込んでくれば、その仕事をあっさり辞めてしまうかもしれない、そういった現金(俗物)な一面が人間にあるのも事実ではあるが、『仕事=絶対的な義務・自己実現(夢実現)の手段』と思い詰めて定義するよりも、『仕事=生活のための手段』と割り切ったほうがすっきりとして働く心境になりやすいというのはある。
生涯賃金に相当する大金が入ってくれば仕事を辞めようと思っている人でも、今はそんな大金なんてないのだから働かなければならないということで働く決断をすることになる。反対に、お金に余り興味はないが、自分のやりたい仕事や自己実現につながる職業でなければ働くつもりがないという人だと、今は大金が無いにも関わらずいつまでも働く決断ができずにジリ貧になってしまうかもしれない。
実現可能性や就職(収入)の見通しがある限りにおいて、仕事に夢や自己実現、好きなことを求めていくことは『仕事の充実感や生き甲斐・自己アイデンティティの強化』につながる。だが、そういった可能性・見通しを度外視して仕事に夢や面白さを求めすぎると、『不真面目だけれどとりあえず働いている人(お金さえあれば仕事を辞めたがっている人)』よりも人生全体が経済的・心理的に困窮してしまうリスクもでてくる。
個人にとっての仕事や就職の本質は『好きなこと・夢の実現(自己実現)』というよりも、『生活のための収入を稼ぐ』と完全に割り切ることは難しいとしても、『好きなことの範囲を広げる・少しでも関心を持てる業界に飛び込んでみる』などの決断が良い結果につながることも多いと思う。
絶対に嫌いというほどの仕事でなければ、やっている内に仕事そのものが面白くなったり、仕事外部の消費・レジャーや人間関係(恋愛・結婚・友人)が充実したりということもある。個人差はあるが一般的には、好きな仕事(仕事による自己実現)ができない不利益よりも最低限の収入を稼げずに社会参加しにくい不利益のほうが、人生全体に与えるダメージは大きいということもある。
第7章 子どもにしがみつかない
愛子さまのことしか和歌に詠まない雅子妃殿下の事例を上げて、『家族・子ども』にしか興味関心が持てなくなり、女性の視野・活動範囲が狭くなり過ぎることの問題を上げている。母親としての自己アイデンティティの強度や子どもを持つことへのこだわりといった論点であるが、母親になることや子育てをすることに自分の生き甲斐を求めること自体は悪いことではないと思う。
第7章は、香山リカ氏自身の結婚をせずに子どもを持たなかったという人生の選択とも関わっている章であり、『子どもを持つ研究者・サラリーマンの雇用待遇面での優遇措置』への不満めいた意見もでてくる。しかし、『少子化社会・男女共同参画社会』の現状を鑑みれば、子どもを育てながら働く女性を企業・行政が支援することには、世論の同意を取り付けるだけの合理的根拠がある。過去には『未婚で子どものいない女性』のほうが、企業組織の雇用継続・昇進面で優遇されていたので、急に『子どもがいる女性』のほうがキャリア形成・休暇取得などで有利になったのであれば、過去と現在との整合性の問題はでてくるとは思うが。
子どもを産むか産まないかは他者に強制されてはならない『女性の選択(+相手の男性の補助的選択)』ではあるが、子どもを産んで育てることには『社会全体の持続性・生産性におけるメリット』があるので、子どもを育てやすい環境・制度を整備していくことは政治・企業の役割でもあるのではないだろうか。
ふつうの幸福を手に入れるルールとして考えるのであれば、不妊症や自分の選択によって子どもを持たなかった人(持てなかった人)が、『子どもがいる人生は幸福・子どもがいない人生は不幸』という二元論的な価値判断に陥らないようにすることだろう。
第8章 お金にしがみつかない
自由市場の競争原理のみによって財を配分する『新自由主義』に対する批判に多くが費やされているが、目的や必要性、使い道も考えずに『過度のお金にしがみつく生き方』が幸福につながらないというのはその通りだろう。
『お金はあればあるほど良い・お金は幾らあっても困らない』というのは、あらゆるモノやサービスがお金で買える資本主義社会(市場経済)では一面の真理かもしれないが、『人間を不幸にするお金へのしがみつき方』として以下の3つにまとめることができると思う。
1.『手に入ったお金(自分が稼げるお金)』に満足できず、『手に入らないお金(それ以上のお金)』にばかりしがみつくこと。
2.『自分の持っているお金』と『他人の持っているお金』を比較して、その差に嫉妬したり不満を持つこと。
3.手段を選ばずにどんなことをしてでも他人を傷つけて不幸にしてでも、『必要以上のお金・贅沢』を貪欲に求めること。
衣食住を整えて生きていくため、一定の文化的生活をするため、他人と付き合って交遊するための『必要限度のお金』を持っていないということは概ね不幸であると言って良いかもしれないが、『それ以上のお金』を稼げなくて持っていないということで自分が不幸であると感じる必要は無いのではないだろうか。
自分にとっての必要や目的に見合った金額(現実的な金額)を稼いだり貯めたりできるように頑張る、という程度の『金銭への執着』がちょうど良いのかもしれない。
第9章 生まれた意味を問わない
この世界に自分の意志とは無関係に生み出されてきたという『投企的な現実(世界に投げ出された現実)』をまず認識することが大切であり、自分が生まれる前から決められていた『生まれた意味』や他人とは異なるオリジナルな『人生の価値』を求めてもナンセンスであるということだろう。
人間は『意味』を求めて『価値』を評価したがる知的傾向を持つから、『自分が生まれてきた意味・自分の人生の価値』を問いたいという欲求はおよそ普遍的なものであるが、そういった問いに対する答えをその時々で出していく営みこそが人生ではないだろうか。
誰か(社会)にとって代替不能な価値を持つ人間でなければならないとか、特別な才能や魅力を持った人間でなければ生まれてきた意味がないとかいうのは、『自己愛・承認欲求』の過剰であって、そういった『特別な自分』になれないとしても自分の人生のオリジナル性は何ら損なわれることはない。
生まれてきた意味や人生の価値というのは、生まれる前から運命のように決められているわけでもないし、社会・誰かが与えてくれた評価をそのまま受け容れて自己価値を確立すれば終わりというわけでもない、数十年間あるいは百年以上の長い人生を生きる中でその都度『了解可能な意味・価値』を自分なりにそれとなく実感できれば十分なものでもある。
第10章<勝間和代>を目指さない
『勝間和代』という固有名は果てなき成功欲求や向上心、努力至上主義の象徴として用いられているが、香山リカは『努力すれば成果がでる・努力すれば夢が叶う』という成功欲求に基づく努力主義を実例を挙げながら批判している。分かりやすく言えば、本人の努力ではどうにもならない問題や偶然の不幸はあるし、遺伝要因・環境要因・心身の疾患によって努力したくても努力できない人たちがいるという当たり前の指摘である。また、幾ら同じように一生懸命に努力しても、他の大多数の人たちと同じ成果をどうしても上げられないという人もいるだろう。
勝間和代と香山リカではメッセージを伝えようとしている想定読者層が異なるし、『書物を書く動機づけ』そのものも違っているので、『適切な努力をすれば成功しやすい・競争に勝つための努力をしよう』という勝間和代の自己啓発的な著書に対する批判としては的外れな観が無いわけではない。
香山リカは、勝間和代は努力したくても努力できない人たちや社会の最底辺で貧困と無力に喘いでいる人たちをどう思っているのか、そんな人たちでも勝間氏の著書を読んで努力し続ければ貧困から抜け出して成功する確率が高まると本当に言えるのかと批判する。だが、勝間氏が想定している読者層は『成功欲求や上昇志向があり努力する環境・意欲・費用を持っている層(一般的なサラリーマン層や学生層などで貧困問題を抱えていない人)』だろうし、成功哲学や自己啓発書は一般に、派遣切り・ネットカフェ難民・ホームレス・生活保護者・無気力者・メンタルヘルスの失調者などの救済を目的として社会問題を考察する類のものではない。
勝間和代の著書『断る力』に対して、大多数の人は断る以前にそんなに依頼が来ないのだから、『断る力』など必要ではなく『(孤独・貧困・絶望に)耐える力』のほうが重要になっていると香山氏は語る。だが、『断る力』が対象読者としているのは、仕事をある程度取捨選択できる恵まれた立場にある人であり、ハローワークや求人情報で仕事を探したり、必死に営業して何でもいいから仕事(依頼)を得ようとしている人ではないことは明らかである。初めから少数の仕事・依頼にさえありつけない人が、『断る力』を発揮したって確かに何のメリットもないだろうし、そもそも会社の一般的な仕事(役職)の大半は断るか断らないか自分で選択できるようなものではない。
勝間和代を目指さないの最終章で重要なのは、『自分の成功の原因帰属に対する歪み』と『他人の失敗に対する不寛容』ということになると思う。『私が成功したのは私が努力したからだ』という原因帰属が極端になると、『他人が成功しないのは他人が努力不足で怠け者だからだ』という現実にそぐわない他者否定になってしまう。成功と失敗の原因が『個人の能力・努力』だけに還元されると、行き過ぎた自己責任原理が社会を覆うことになり、失敗した人は努力不足で怠けていたのだから成功者が財の再配分をする必要はなく、政治的な社会保障の救済もすべきではないということになってしまう。
確かに何もしなくて偶然や幸運だけで成功することは無いかもしれないが、『成功に向けて努力できる環境』があるか無いか、『努力の道筋を見つけやすい家庭(親)の教育資本・教養水準』があるか無いかの所与の環境要因の違いというのも大きい。『努力しなければ成功しない』というのはある程度“真”であるが、『努力すれば成功する・失敗したのは努力しなかったからだ・努力すれば絶対に失敗はしない』は“真”であることもあれば“偽”であることも多い。
親や成育環境、経済状況、社会階層、遺伝要因、健康状態など本人の努力では十分に解決できない所与の要因によって、『機会の平等』を実際的に実現することができない以上、『完全に公平な競争』というのも近代社会を成立させるためのフィクションを多く含んでいる。また、『成功―失敗の結果』だけを見て、その人が努力してきたのか努力しなかったのかを判断することは難しいし、成功した要因が『自分の努力・能力』だけに由来するという原因帰属は、社会的リソースや他者(支援者・消費者)の協力がない成功は有り得ないので“誤り”と言って良いだろう。
『成功しなければ幸福になれない・努力し続ければきっと成功する』という固定的な偏った信念は、大多数の人にとっては『成功できない自分は努力が足りない・成功していない自分の幸福なんて自己欺瞞に過ぎない』という不幸の実感を強めるだけだろう。努力し続けて飽くまで経済的・社会的な成功を求める生き方があってもいいし、成功の結果を出せれば賞賛すべきことでもあると思う。
一方で、大きな成功を求めずに『ほどほどに努力する生き方』や『それほど努力しない生き方』などの人生の多様性も認められるべきだし、『ライフスタイルの多様性』に対応した小さな幸福や日常的な楽しみを見つけることができれば、それなりに『ふつうの幸福』を実感しやすい心境にもなるのではないだろうか。