「不安の時代」に光をと思う
「うつの時代」ともいわれる 慢性持続性ストレスの時代
やはり人間は欲があるので限界まで頑張りたいと思うわけで
そうすると誰もが疲れ果てる
うつになれば不安になるし
不安が続けばうつになる
能力の限界まで仕事をして疲れ果てて
さらに家庭でも何かの役割があるとなれば
疲れ果てる
疲労の果てにはうつと不安がある
もう一つ、明確なモデルの不在という問題がある
アメリカ留学してアメリカかぶれになった人が新自由主義などと言って日本をだめにしたと
中谷巌氏が書いている
アメリカモデルがいいといわれるといいと思ってしまう弱さはどうしてだろう
先祖と同じ流儀ではだめだと感じていることが一つ
それはテクノロジーが違うのだから仕方がない
人と人との関係も電話さらに携帯が発達して違ってきた
交通の発達が人間の意識も変えている
学生時代に選抜されて都市に住居を移すタイプの人口移動が普通になった
そのあとは先祖が経験していない場所で暮らし
先祖が経験していない職業に就き
今までにいなかったタイプのパートナーと生活してゆく
今までにないタイプの子供が生まれて、彼らを育てる
未来が決まっていないのは希望でもあるが不安でもある
強迫性障害の人たちは不安を減らすために世界を固定した、選択肢の少ないものに変換して生きている
不安の時代に「安心を」というのと「希望を」というのでは大分違う。
先の見えない時代は不安ばかりが大きくて嫌だから
個人的に「鎖国」をしたらどうだろうという発想もある
チャンスを捨てることになる面もあるが
余計な不安にさらされる必要もない生活
それをある程度の「個人的鎖国」によって手に入れようという戦略だ
利益や便利さを極大化しても
幸せが極大化しない
利益や便利は知識の領域で
幸せは知恵の領域だ
本を沢山読んでも幸せになれないのはそのせいだ
知恵は自転車に乗るとか、水泳をするとか、そんな感じのスキルだろう
自分の体験を深めて知恵にする方法を体得する必要がある
自分の人生の条件がある
自分のDNAがある
知恵はそれぞれのものである
安定した農村社会では
環境が一定していたので
自分のDNAだとだいたいどんな人生になるか分かっていて
ハイジもベータもそんなに未来について不安に思わなくて良かったのだと思う
むしろある種の退屈を抱えていたものではないかと思う
ハイジもベータもたとえば思春期の課題があり中年の危機があっただろうと思う
しかしそれは先祖も乗り越えてきたことだと思えば何となく乗り越えられるだろうと思う
グローバル化は避けられないし
それを拒むとすれば保護主義的になってしまい危機的だとする論評が多い
しかしどうだろう
自分たちとはあまり関係のない理由での戦争で原油価格が上がったり下がったりする
自分たちとはあまり関係のない世界での投機マネーによって食料品の価格が上がってしまう
そんなことにいちいち対応して
それでもやはりグローバル化世界が望ましいか
グローバル化は世界全体の植民地化だという論評もある
確かにそのような面がある
うまい作戦だと思う
我々庶民のレベルでいえば某グローバル支配者に支配されるのも日本国政府に支配されるのも
あまり変わらないような気もする
グローバル支配者の下にいた方が庶民は浮かび上がるチャンスが増えるような気がする
グローバル支配者は有能な人材が欲しいからだ
日本国政府は有能な人材よりも自分たちの子どもの方が大切らしい
いや
望ましいかどうかではなくて
グローバル化以外に選択枝はないらしい
イノベーションを拒むこともできないし
輸入品は否応なく生活に入り込む
不安耐性を高めるしかないのだろうけれど
大変な場合もある
ニューヨークと東京とどこか日本の田舎を比較して
順に不安が低くなると思う
つまり予測可能性が高まる
都会的不安が蔓延する世界と言えるのかもしれない
逆向きに生きるのではなく
前向きに生きて克服する