最近は自分の人生ではめったにないくらい静かな時間を生きている。
仕事で忙しかった頃は、時間さえあれば、私はやりたいことがあるのだと夢想していた。
いま、誰にも邪魔されないで好きなことができる。
旅行もいいし、読書もいい、散歩に時間を費やしてもいいし、
スケッチ教室に出かけてもいいし、
神宮の陶芸教室に申し込んでわざとさぼって読書に熱中するというのも楽しみだ。
しかし人間は贅沢なもので、それにさえ、慣れてしまうのだ。
これを別の角度から見れば、無限に貪欲だとも言えるだろう。
また一方で人間が歴史的制約の中でしか生きられない存在であることも知るから、
自然な形での諦めも感じている。
私が年金を受給するまでの時間を考えると、
それは長すぎる、とも思う。
切れ切れの夢を見る。
ほのかな甘い感覚の夢である。
たとえばそのイメージの中心にいるのは、若い女性で、
その母親と私と三人でお茶のテーブルを囲んでいる。
私は「紅茶が入っているのに、どうして抹茶の茶碗みたいなものを持っているのだろう」
「この茶碗は縁の部分に等間隔に三箇所、飾りが付いている、私はそれを指で触りながら女性の話を聞いている、そしてこれは夢なのだろうと知っている」
女性は語る「わたしは別段結婚ということにこだわりはない。でも、特にネガティブなこだわりもない。母がそれほどすすめてくれるなら、特に抵抗したいとも思わない。」などと静かに語っている。
そして指先の感触を楽しいものとしてありがたく思っている自分を意識している。
夢が終わって起きて、しばらくしてから、今日は池田満寿夫の版画を見たりしたのだった。
明らかに才能であるが、この人については少し思い出すこともある。
加藤周一は昭和の時代の知性として、また現在も時代の良心として、尊敬を集めているし、私は尊敬している。
その加藤が、昔、池田のアトリエを訪れたことがあるのだという。
パリなのかどこなのかは忘れた。
池田によれば、そういえば、評論家だとか言う加藤、そういえばそんな名前、
そんな人がアトリエに訪ねてきて、なかなか帰らない。
仕方ないので顔を出すと、なんだかよく分からないことを言っていて、
困ったのだが、そのうちに帰ってくれたのでよかった。
いまから思えばそれが加藤さんだったのかな。
といったような意味合いのことを語っていた。
一方の加藤は、池田のアトリエを訪ねて、しばらく歓談に及んだ、
のようなことだったのだろうかと、あやふやながら思う。
こうしてみると、才能と知性も、必ずしも幸せに出会うわけでもないし、
お互いに評価は違うものなのだと思い、
また自分が年を取ってみると、そんなエピソードも自然なものとして、
心の中に畳まれているのだと感じている。
そのようにして私の日常の意識のコラージュが織りなされて行く。