事象そのもの

たとえば有名な学者が発達障害についてなにか言っている

すると
事象+その学者の解釈
論説は成り立つ
私は私がその事象に接したらどう解釈するかを想定しながら読む
そのとき頭の中では
文章から、その学者の解釈を引き算して、私の解釈を足し算して、事象を捉える
解釈以前の事象そのものを表現することは難しい
いくつかの主観があり、対象につきまとい、いくつかの解釈が生まれる
ーーーーー
しかしどうだろうか
そのように異なる解釈をしている時も
ぼんやりと事象そのものを追い求めていて
しかしそれが結局は自分の解釈でしかない
そして実際にはそれで用が足りている
ーー
カラスの黒が黒らしい黒なんだとかいうわけで
それで通じているからいいのだろうと思う
ーー
もちろん、なぜバラバラな主観があるだけなのに
事象そのものが存在しそうな気がするのかといえば
つまり素朴実在論で用が足りるのかといえば
脳がそのような仮定を採用したとき
その集団の生き延びる確率が高くなるということだ
ーー
たとえば
生物進化の歴史では
宗教的思考と唯物論的思考が対立し
昔は唯物論が共産主義と通底していたため話が混乱したけれど
最近ではそうで見ないので
やや整理がしやすくなっている
化石を埋蔵している地層の重なりを見て
これは神様が懸命に作ったのだと解釈する人もいて
時間をかけて進化のプロセスをたどったと考える人もいて
それぞれの人が多分同じものを見ているという確信は共通している
その確信が事象そのもので
いつの間にか事象そのものが実在してそれに解釈が加えられるというモデルが成立してしまう
ーー
脳の習慣として
解釈と一体の事象しかないのだと信じろと言われても
無理なのだと思う
解釈には影響されない事象そのものが実在すると素朴な科学は
前提していてそれで充分な成功を収めていて
人生を生きるにはなんの不都合もないけれど
厳密に考えると
そのような共通の事象そのものは存在が危ういのだと考えられる
ーーー
量子力学で定義される実在は
シュレディンガーの猫で
ここで犬ではなくて猫が登場してその後変更がない
それは犬は機能であり猫は形態であるという私の仮説に一致している